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March 2020

使者をもてなす歌と踊り

300年の歴史を誇る沖縄の歌舞劇「組踊」には、琉球王国の伝統と文化が凝縮されている。

三線や琴、笛や太鼓を奏でる地謡(伴奏者)が登場人物の心情を切々と歌い上げていく。劇の見せ場になると役者はせりふや動きを抑え、音に委ねる。伝統衣装に身を包んだ立方(役者)が口にするせりふは、琉球王国の士族が使っていた古い言葉である。沖縄の古典芸能の一つ、「組踊」はこうした独特な様式で演じられる歌舞劇である。

15世紀からおよそ450年続いた琉球王国は、当時の中国の王朝、明と清に朝貢することで交易を許され、日本や東南アジアとの中継貿易で栄えていた。そのような関係から琉球国王は代が替わるたび、中国皇帝の使者「冊封使」(さくほうし)を迎えて正式に即位する形を取っていた。その冊封使一行を歓待するために生まれたのが組踊である。創作したのは宮廷における芸能全般を司る踊奉行の玉城朝薫(たまぐすく・ちょうくん)という人物で、1719年、士族の男たちによって首里城の前庭で初めて上演されたと伝わる。

組踊は琉球独自の古典音楽や伝統舞踊を基にしながら、能や歌舞伎の要素も取り入れ、さらには当時の中国で規範となっていた儒教の価値観も反映して、主に忠や孝をテーマとする演目が上演されてきた。国立劇場おきなわで芸術監督と企画制作課長を務める嘉数道彦さんは「組踊は外国からの使者をもてなす宮廷芸能であるとともに、中国と日本に挟まれた小さな王国が生き抜くための、知恵と工夫を凝らした外交手段でもあったのでしょう」と話す。

組踊は、存続の危機に見舞われつつも、300年もの歴史を重ねてきた。明治維新の後に新政府が行った廃藩置県で、1879年に琉球王国は沖縄県として日本に組み込まれ、これ以降、宮廷の手厚い保護下にあった芸能者たちは、活動の場を町の芝居小屋へと移し、組踊を伝承してきた。また、第二次世界大戦の末期、沖縄は軍人だけでなく一般住民も巻き込んだ激しい戦場になり、そこで伝統芸能の担い手も多くが命を落とすことになった。

1972年、戦後長らくアメリカの施政権下にあった沖縄が日本に復帰すると、組踊はすぐに国指定重要無形文化財に指定された。さらに1986年に開学した沖縄県立芸術大学では組踊を学ぶ専攻の学科が設けられ、2004年に国立劇場おきなわがオープンすると上演機会も格段に増えていった。そして2010年にはユネスコ無形文化遺産に登録され、日本の代表的な伝統芸能の一つに数えられるようにもなっている。

こうして沖縄の古典芸能の中核を担ってきた組踊ではあるが、民謡や舞踊といった他の沖縄の民俗芸能に比べると、一般の人にはなじみが薄いのも事実だという。外国の使者をもてなす宮廷芸能だけに難解な印象が強く、披露される場も限られているためである。そこで嘉数さんたちはもっと多くの人に親しんでもらうため、新たなスタイルの公演にも取り組み始めた。その一つが国立劇場おきなわで毎年上演される普及公演で、まずは誰もがストーリーを知っているシンデレラなどの劇を組踊の様式で上演し、観客に理解を深めてもらった上で伝統的な古典演目を楽しんでもらおうというものである。このほか、子どもたちに向けては絵本『スイミー』を組踊に仕立て直した演目なども用意している。

「組踊は小国だからこそ生まれた芸能で、そこには独自の歴史や文化が凝縮されています。こうした魅力をより多くの人に親しんでもらいながらも、歯を食いしばりながら組踊と伝統を守り抜いてきた先人たちの心意気も次の世代へとしっかり伝えていけたらと考えています」と嘉数さんは話す。