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Highlighting JAPAN

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海外で活躍する日本人

フード パイオニア、瀧上妙子氏



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1980年代、日本食はアメリカで流行し始めた。食べ慣れない「和食」にトライする勇気のあるアメリカ人は、おいしい寿司や有名な銘柄の日本酒などを口にする機会はあったが、それ以外のものはまだ珍しかった時代だ。しかし今や日本食は十分多様化し、もはや“日本食イコール寿司”という概念ではなくなり、日本で日常的に食べられているラーメンや丼ものなどの国民的料理、居酒屋料理や地酒なども容易に手に入るようになった。アメリカ料理界の目と心を開くのに多大な貢献をした人物が、瀧上妙子氏だ。

コムカルチャー社 (www.comculture.net) の代表であり、ニューヨークを拠点とした「ごはんソサエティ」の理事でもあった瀧上氏はアメリカの食文化の発展に大きく寄与してきた経歴を持つ。まずカリフォルニアに渡り、80年代前半にニューヨークに移った彼女は、多くのアメリカ人があまりにも単純な日本食の概念しか持っていないことを知り、アメリカの料理人たちに日本食とその豊かな食材を教える仕事を始めることとなった。

「私は大阪生まれですが、大阪の人々は皆食べることが大好きなんです。大阪人は同じテーブルで一緒においしいものを食べることが人と人の絆を強くするとほんとに思っているの。食を楽しむ心はどんなものより人々を結びつける力がある。この重要な文化的特徴が大阪の人の暖かさなのでしょう」

栄養バランスのよい日本の食材を食べることが健康的な利点があることはもちろんだが、正式な「懐石料理」や庶民的なラーメンなど、その料理の文化的な背景も北米の人々に新たな食の世界を開いてくれるのだろう。「料理人の方たちが日本食独特の調理法に出会うことは、彼らがレシピに取り入れるヘルシーな食材のチョイスを広げるだけでなく、新しい料理や国籍を超えた料理を作り出す創造性も育ててくれる。シェフたちに日本食のおいしさを伝えることは単にいいビジネスということではなく、日本とアメリカの食文化の伝統における文化交流のミッションでもある。一石二鳥といったところかしら」

音楽や映画、言葉が異国への興味を惹きつけるのと同様に食も異文化を知る上での重要な入り口になる。瀧上氏にとって食は多くの機会を提供してくれた。「日本とアメリカの文化を融合させる遺産を残すことが私の生涯の目標なんです。それはそれぞれの国が持っている最もいいところを互いに楽しむことであり、さらに伸ばしていくことだと思う。人生の情熱をさらに豊かにする貴重な方法ね」

また食は人々が困難な状況では生命の支えとなるものだ。2011年3月に東北地方を襲った地震は多くの人々から住居や食べ物を奪ったが、瀧上氏は人道的支援のために料理人たちを役立てる機会を掴んだ。アメリカでボランティアのシェフたち(皆世界的に知られた一流シェフたちだ)を集めて岩手県釜石市で被災者に食べ物を提供する救援キッチンの開設に尽力した。救援作業もままならず、ボランティアも足りない時期にあって、救援部隊や行き場を失った人々においしい食事を提供するキッチンの存在は、悲劇的な状況に外国から来た援助として大変歓迎され、感謝されるものだった。

現在彼女の会社は今までさらに知られていなかった日本の食材と料理法をアメリカの料理人たちに教えている。もちろん栄養バランスは和食の最大の魅力だ。日本人の平均寿命を考えればなおさらだ。魚や野菜などのヘルシーな食べ物はもとより、「和食」の主食であるそばや米は脂肪分やコレステロール、添加物などが少なく、正しく調理すればカロリーの高いアメリカの食べ物に代わるヘルシーな食事となる。日本では露店の食べ物でさえ比較的健康によく、アメリカの食卓にとっては大きな魅力となりそうだ。繰り返しになるが、料理人たちがそういった食材を選び、適切に調理するには教育と訓練が鍵となるだろう。

瀧上氏の最近の取り組みはニューヨークのトップのシェフたちと繋がることだ。イベントやセミナー、試食会などを主催することで最高峰のフランス料理界にも影響を与えながら、メディアを利用して料理人の交流を進めることも考えている。「西側の大物シェフが日本を周って地方の郷土料理と出会うところを映像にすれば、日本料理の持つシンプルさ、洗練さ、そして心のこもったおいしさをより広く理解してもらう上で必要な新たな道を開くかもしれないでしょう」

我が国の料理界の幅を広げて来たのは瀧上氏のようなフード パイオニアの情熱だ。



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