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April 2023

広島で受け継がれる茶道の伝統

  • 上田宗冏・茶道上田宗箇流十六代家元
  • 和風堂の一室で、お茶をいただく上田宗冏家元(中央)
  • 上田宗箇作の竹茶杓『敵がくれ』(長さ19センチメートル(上)、18.3センチメートル(下))
  • 上田宗箇作の茶碗『さても』(高さ8.2センチメートル、口径12.4センチメートル)
  • 2022年8月6日、和風堂の庭園を眺める各国の駐日大使
  • 和風堂数寄屋「遠鐘(えんしょう)」
  • 和風堂「鎖之間(くさりのま)」
  • ニューヨークの茶室で客をもてなす上田宗箇流の講師(右)
上田宗冏・茶道上田宗箇流十六代家元

茶道上田宗箇流(さどう うえだそうこりゅう)の十六代家元である上田宗冏(うえだ そうけい)さんに、広島の地で400年にわたり受け継がれてきた茶道の伝統について話を伺った。

和風堂の一室で、お茶をいただく上田宗冏家元(中央)

茶道(茶の湯)について教えてください。

各地の大名の間で戦いが頻発していた15世紀半ばから17世紀初頭にかけて、現在まで受け継がれる茶道の思想や形式が形作られました。茶道は簡単に言えば、亭主自らが招いた客人の前で、お茶を点(た)て、振る舞うことですが、お茶を点てる時の動作、茶碗、茶室に飾られる花や掛け軸、茶室、庭など様々な要素が含まれる日本の総合伝統文化です。

茶道は人間の五感を刺激します。静かな茶室の中に座っていると、お湯が沸く音、香の香り、茶碗の手触り、お茶の味などを敏感に感じることができます。そうすると、自然と心が落ち着き、日常生活の様々な出来事が忘れられます。まるで、心身が浄化されるような気持ちになるのです。茶道で得られるこの感覚は、戦乱の時代の武士も、現代の人も変わりはないと思います。

広島の地で創設されました茶道、上田宗箇流について教えてください。

茶道には様々な流派があります。上田宗箇流は、数々の武功を挙げた勇猛果敢な武士として知られる上田宗箇(1563〜1650年)によって創設されました。宗箇は1619年に広島藩主に従い広島に入り、広島県西部を治めました。

宗箇は茶道を完成させた千利休(せんのりきゅう。1522〜1591年)に当初師事し、茶事を学びました。その後、利休の弟子であり当時天下一の茶人と言われた武士の古田織部(ふるた おりべ。1544〜1615年)に師事、織部と共に「武家茶道」を創設しました。武士として死と隣り合わせの生活を送らなければならなかったからこそ、心の静けさが得られる茶道に強く魅かれたのかもしれません。

宗箇は茶道具も残しています。『敵がくれ』という2本の茶杓(ちゃしゃく)は、急迫する敵を待ち受ける中、竹藪から竹を切り、小刀で平然と作ったと伝えられます。戦の最中に作られたとは思えないほど、見事なものです。また、『さても』という茶碗も、宗箇の作った優れた茶器の一つです。器の表面に箆(へら)で施された「箆目(へらめ)」と呼ばれる文様から力強さを感じると同時に、宗箇の手の温(ぬく)もりを感じさせるような茶碗です。宗箇は作庭家としても名があり、広島の縮景園(参照)、徳島城表御殿庭園(とくしまじょう おもてごてんていえん)、和歌山城西之丸庭園(わかやまじょう にしのまるていえん)、名古屋城二ノ丸庭園(なごやじょう にのまるていえん)の設計も行っています。その意味で、宗箇は武士であるとともに芸術家であったと言えます。

上田宗箇作の竹茶杓『敵がくれ』(長さ19センチメートル(上)、18.3センチメートル(下))
上田宗箇作の茶碗『さても』(高さ8.2センチメートル、口径12.4センチメートル)

私は宗箇から16代目の家元となります。上田家は宗箇以来、17世紀初頭から約260年にわたって続いた江戸時代の間、広島藩主に仕える家老であり、広島県西部を治める領主でした。そのため、「茶事預(ちゃじあず)かり」と呼ばれる家臣に宗箇の茶道を伝承、伝授させる責務を与えていました。しかし、1955年から上田家当主が家元として直接宗箇の茶道を伝承、伝授するようになりました。現在、私たちは広島県、京都府、大阪府、東京都など国内だけではなく、ドイツ、フランス、イギリス、オーストラリア、アメリカ、ブラジルなど海外にも稽古場を開いています。

海外ではどのような方々が上田宗箇流で茶道を学んでいるのでしょうか。

デザイナー、建築家、芸術家、教師など様々な人が稽古しています。現代の人は、日本人も外国人も、通常、椅子に座って、仕事や飲食を行います。そこで、茶道でも今は、椅子に座って、亭主がお茶を点てたり、客人がお茶を飲んだりすることもあります。しかし、畳の上に正座したり、あるいは足をくずして畳に座して茶室で茶会を行うことが、伝統的な茶事になります。海外の方々も、茶室という日常生活を過ごす場とは大きく異なる空間で、座して静かにお茶を飲むことに、今までに経験のない刺激を受けるのかもしれません。

実は、例年8月6日には、平和記念公園で開催される平和記念式典に出席した各国の駐日大使が、広島市西部の古江東町(ふるえひがしまち)にある、ここ上田宗箇流の「和風堂」へお越しになります。広島の文化を経験するプログラムの一つとして、広島市長が大使を招待するのです。この約20年、ほぼ毎年、40人ほどの大使とそのご家族がいらっしゃいます。私は毎回、茶道や上田宗箇流について皆様にご説明して、お茶を振る舞います。気分がリフレッシュされるのか、皆様ここを後にされる時は、非常に晴れ晴れとした表情になっています。

2022年8月6日、和風堂の庭園を眺める各国の駐日大使

その和風堂について沿革を教えてください。

和風堂数寄屋「遠鐘(えんしょう)」

和風堂は、広島で約400年にわたって受け継がれてきた伝統文化を残したいと思う多くの方々のご支援を受けて、再建されました。30年以上の歳月を費やし、2008年に完成した和風堂は、約5,200平方メートルの敷地に、宗箇が広島城内に造営した上田家上屋敷を再現したものです。原爆が投下された時、上田家は市の中心地から離れたこの地に住んでいたため、宗箇以来伝わる、美術工芸品や古文書は被害を受けませんでした。屋敷の絵図も残っていたので、再現することが可能だったのです。

和風堂の最大の特徴は、茶室のある「茶寮(ちゃりょう)」と呼ばれる建物と、典型的な武士の屋敷である「書院屋敷」が、一体化していることです。17世紀初めから始まった「数寄屋御成(すきやおなり)」という、家臣が来訪した主君をお茶でもてなす儀式を行うために、こうした建物を建てたのです。数寄屋とは茶寮、御成とは主君が家臣の家を訪れることを指します。

和風堂「鎖之間(くさりのま)」

日本でこのような建築が現存するのは和風堂だけなので、県内外から様々な方が見学にいらっしゃいます。

例えば、そうした方々の一人、広島に本社を置く自動車メーカー「マツダ」のデザイナーは、和風堂から車のデザインのインスピレーションを得たと話されていました。その方は、和風堂の茶室に入り、入口の戸を閉める時に鳴る乾いた音を聞いた時、別世界に入ったような気持ちになったそうで、彼のデザインした自動車 (1989年に発売された二人乗りスポーツカー)のドアは、閉めた時に、別世界に入ったと実感する音が出るように設計したとおっしゃっています。

ニューヨークの茶室で客をもてなす上田宗箇流の講師(右)

5月にG7広島サミットが開催され、広島が世界から注目を集めることになります。海外から広島を訪れる方々に、上田様おすすめの場所をご紹介いただけますでしょうか。

いつ行っても素晴らしいと思うのは嚴島神社(参照)です。瀬戸内海に浮かぶ島々の景色も、いつ見ても本当に美しいです。それと、海外の方々には是非、プロ野球チームの広島東洋カープの試合をスタジアムで見てほしいです。広島東洋カープは広島の人にとって、「家族」のようなチームなのです。スタジアムでは、熱狂的なファンの応援が生み出す独特の雰囲気を味わうことができます。

そして何よりも、美しい広島の街を見てほしいです。私は広島に原子爆弾が落とされる直前に生まれましたので、広島が廃墟から復興していく中で育ちました。広島の人々は、大きなエネルギーを注いで、自分自身の生活、街を復興させました。その結果、広島は美しい街となりました。しかしそれは、多くの命が失われた上に成り立っていることも知っていただければと思います。