Home > Highlighting JAPAN > Highlighting Japan November 2017 > 現代の日本建築

Highlighting JAPAN

未来のための小さなモデル

東日本大震災で仮設住宅住まいを余儀なくされた住民たちのために建築家の伊東豊雄さんによって建てられた小さな施設は、未来の建築にとって様々な可能性を示すものとなっている。

建築家の伊東豊雄さんは、2011年3月11日の東日本大震災の甚大な被害に際し、建築とは何か、建築家は何ができるのか、建築は誰のためのものかという自問に突き動かされた。伊東さんは、現代日本を代表する建築家で、国際的に高い評価を得ており、2013年には建築のノーベル賞と言われるプリツカー建築賞を受賞している。

震災の翌日、3月12日は、伊東さんの代表作の一つであり、仙台市中心街に建つ「せんだいメディアテーク」の開館10周年のお祝いの前日だった。大震災のためにお祝いどころか、メディアテークもしばらく閉館となり、「なんとか一日でも早く復興を」という思いから、仙台へ、さらに被災地へ通うようになりましたと伊東さんは言う。

メディアテークは、仙台市民図書館、ギャラリー、イベントスペース、ミニシアターなどからなる複合文化施設で、特殊な柱構造設計に優れた建築であるため、国内外からの訪問客が後を絶たない。しかし、この建物の特徴はそれだけではない。

「僕がよく言うのは、メディアテークは『公園の中なんだよ』ということです。建築物の中にいながら屋外にいるような建物、世代を超えて誰もが混在し、どこでも歩き回れる空間、その大切さを形にした建築なのです」と伊東さんは言う。

それは、例えば、襖や障子を開けたり外したりでき、空間を完全に分断しないという日本の伝統的な家屋を連想させる。

被災地を調査した伊東さんは、「こういう時こそ小さなメディアテーク、『みんなの家』が必要だという思いがありました」と言う。被災者を仮設住宅の壁で隔絶させてはいけないと考えた。

2011年10月、仙台市宮城野区に完成した「みんなの家」第一号は、伊東さんが何度も被災地に足を運んで住民と話し合って作り上げた。伊東さんは、他の建築家の支援と協力を得て、国内外からの寄付を募り、これまで「みんなの家」を地震や津波で被災した日本の東北地域に16軒建てている。そのすべてが住民と一緒に考え一緒に作り上げたものだ。

現地で携わった「みんなの家」第一号は、伊東さん自身、試行錯誤だった。

「震災から3か月ほどの頃で、実現できるか、皆さんに喜んでもらえるか、まったく予想がつきませんでした。最初にプランを示した時は『なんだ、そんな小さいものなのか』と言われました(笑)。それでも模型を持参して『ここに薪ストーブもある、縁側もあるんだよ』などと話すうち、『有難い』と思ってもらえるようになり、出来上がる頃には皆さんがとても楽しみにしてくれました」と伊東さんは当時を振り返り、「まだ本当に苦しい状態だったので、一緒に作る喜びもひとしおでした」と言う。「みんなの家」は、子どもたちの遊び場となり、農業や漁業の再興を語り合う場となり、地域の絆を取り戻していく拠り所になった。

「みんなの家」の実現に当たって、伊東さんは「熊本アートポリス」で係わりのあった蒲島郁夫熊本県知事に支援を求めた。

「仮設住宅の暮らしが非常に悲惨で、住民が集まって語り合い憩える場所を作りたいと協力をお願いしました。蒲島知事は即座に支援を決めてくれ、熊本の豊富な材木や資金の一部を提供してくれました。お蔭で第一号が出来ました」(伊東さん)

2016年4月14日と16日、その熊本県で大地震が発生した(参照)。蒲島知事は即座に「みんなの家」を作ることを決めた。伊東さんがはせ参じたことは言うまでもない。「我々も地元の若い建築家のお手伝いをしながら、地元の大工さんや応援の学生たちも一緒になって、80軒以上の「みんなの家」が出来上がりました。文字通り『みんなの家』になったのです」と伊東さんは笑顔を見せる。

現代の公共建築は洋の東西を問わずプログラムや機能別に作られるが、伊東さんは「そんな時代は終わりました。社会は機能概念では捉えきれないほど複雑になっています。美術館で本を読んだり、音楽を聴いたりと、機能の境界が薄れてきています。その一番極小的な形が「みんなの家」です」と語る。

「みんなの家」は、公共建築のこれからの在り方を示すクリエイティブな指針となっている。