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Highlighting JAPAN

丹下健三:建築界のレジェンドの遺産

独創的な建築スタイルと都市設計で世界を魅了した日本の建築家が遺した作品と精神は今も輝きを失わない。

世界的建築家たちは影響を受けた日本の建築として、丹下健三(1913-2005)が設計し、1964年の東京オリンピックの主要会場の一つとなった国立屋内総合競技場(現在の国立代々木競技場)を挙げる。丹下は、日本的伝統美を表現したモダンな構造体、2本の柱で屋根を吊る画期的な構造の第一体育館と柱1本の第二体育館を都市の一つの軸として設計した。(参照

丹下が建築家の道を目指したきっかけは、旧制広島高校在学中に芸術雑誌で目にしたル・コルビュジエの「ソビエトパレス」だった。丹下はこれに衝撃を受け東京帝国大学工学部建築科(現・東京大学工学部建築学科)に進学、卒業後はコルビュジエのもとで直接学んだ前川國男(1905-1986)に師事した。

丹下健三の名が世界に認知されたのは、原子爆弾が投下された広島の復興計画の核となる「広島ピースセンター」(現・広島平和記念資料館及び平和記念公園)だった。幅員82.3メートルに及ぶ構造体を高さ6.5メートルのコンクリート柱20本で持ち上げる大胆な設計で、桂離宮のように柱が垂直に伸びる美しさを強調し、伝統建築の繊細さを感じさせる。

その真価は建物だけではない。丹下は都市計画を見据えて広島平和記念公園を設計した。主要道路からゲートの役割を果たす平和記念資料館の視線の先に、被爆して骨組みが露出した旧広島県産業奨励館(原爆ドーム)をあえて残し、シンボルとして取り入れることで戦禍からの復興だけでなく、広島に平和を祈る都市という性格を与えた。

丹下の遺志を引き継ぐ丹下憲孝(現・株式会社丹下都市建築設計会長)は「おそらく父は世界で最も早く建築と都市を双方向で緊密に関連付けて設計に取り組んだ建築家の一人ではないでしょうか」と話す。「父の建築思想には、都市と建築、そして伝統と創造というテーマがありました。もちろん、今は社会の建築に対する要請は父の時代と大きく異なりますが、この二つのテーマは今も私たちの基本理念の全てなのです」

広島の衝撃の後、丹下は、アジア、ヨーロッパなどでも、その土地の伝統と近代建築を融合させた都市設計を手掛けた。例えば、1975年に計画が始まり87年に竣工したイタリア ボローニャのフィエラ地区がある。丹下は、ポルティコ1や塔や広場などのボローニャの中世の街並みといった現代的な再解釈の要素を与えた。こうした丹下の街づくりは、現在も高く評価されている。

1961年、丹下は東京の都市構造の改造を期した「東京計画1960」を発表している。東京の継続的発展を予期し、東京湾に、東京から千葉県を縦断する海上都市を構想した。実現することはなかったが、奇しくも2020年の東京オリンピック・パラリンピックは、丹下が東京計画の中で東京側の起点とした場所で開催される。

2020東京オリンピックでは、丹下都市建築設計も、競技施設の設計に携わっている。「国立代々木競技場は、観客とアスリートが一体となるように設計されましたが、私たちは競技場の外でも一体感が生まれ、そして東京らしさを感じてもらえる提案をしたいと思っています」と憲孝会長は語る。「オリンピックの開催を、より良い都市に再構築する契機にする必要があります。2020 年東京オリンピック・パラリンピック競技大会は、今後、成熟した都市で開催されるオリンピックの在り方を示すことになるでしょう」

1964年から半世紀以上の時を経て、東京は再び、国内外に人間と建築と都市の関係に新たな提案を示す機会を得る。

この数字は、海外企業にとって、対日投資リターンが高いことを示す数字だ。日本の対内投資推進策が日本市場におけるビジネスチャンスを広げている。

(注)
1 建物の玄関に導くような柱として拡がるポーチであり、柱で屋根がある建築様式