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Highlighting JAPAN

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特集新たな視点で眺める東京

旧くて新しい東京(仮訳)

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江戸時代から明治、大正、昭和を経て、平成時代の現在に至るまで、近世、近代、現代の3つの時代を歩んできた東京。その様子は、建築物からも伺えることができる。2012年10月に復原する東京駅丸の内駅舎、そして、今も歴史的な建造物が残る日本橋地区を紹介する。松原敏雄が報告する。


100年前の姿に生まれ変わる

1914年建造の東京駅丸の内駅舎は、華やかで堂々たる風格を備えた赤レンガ造りの英国ヴィクトリア調の建築物であり、建築家・辰野金吾の一世一代の大作だと言われている。全長約350メートルに及ぶ3階建ての長大な駅舎は中央玄関を中心に左右対称のデザインにまとめられ、駅舎の両端には個性的なドーム屋根を設置、日本の近代建築のシンボル的存在として国の重要文化財に指定されている。

この東京駅は非常に頑丈に造られていて、1923年に起きた関東大震災による損傷もわずかなものだった。また、第二次世界大戦中、1945年の東京大空襲では3階部分を焼失したが、それでも建物の基礎構造に大きな損傷はなかった。空襲のダメージを受けた東京駅は、戦後の復興工事によって3階建てから2階建ての駅舎となった。

今回の復原作業の大きな目的は、その駅舎を創建時の3階建てへと戻すことだった。復原にあたっては、免震構造をはじめとする高度な最新技術を駆使すると同時に、創建時の仕様や工法が可能な限り取り入れられている。内壁、レンガ、擬石などの建材も、使えるものはそのまま残す方針が採られた。 復原にあたって苦労したことは、当時の設計図があまり残っておらず、写真も文献も非常に限られていたことだという。加えて、伝統的な工法を今に受け継いでいる職人もほとんどいないため、手作業に要する労力と時間は膨大なものだった。

例えば、屋根に使う天然スレートは既存の2階屋根のものを再利用しているが、問題なく使えるか膨大な量を1枚ずつチェックしている。この点検作業をできる職人は、日本に数人しかいないという。

また、外壁を飾る化粧レンガは、角をシャープに見せる日本独自の伝統的な技法によって施工されている。これはレンガとレンガの間に単純な1本の筋を入れるのではなく、専用コテを用いて真ん中だけに膨らみをもたせる技法で、熟練した技がないと施工できない。これもごく限られた職人による長期間に渡る作業となった。

その新造された3階部の化粧レンガも、1〜2階の現存部との風合いを調和させるために、3種類の焼き上がりの異なるレンガを製作し、エリアごとに異なる比率で混ぜ合わされている。100年近い年月を経たレンガと同じ風合いを出すために、熟練の工房による様々なテストと試行錯誤が繰り返された。

このような伝統的な技術や工法を用いながら、一方では最先端の技術がふんだんに注ぎ込まれている。免震構造を導入するために用いられた、総重量7万トンに及ぶ巨大な駅舎を地下に打ち込んだ杭で支える仮受け工事、地上と地下の間に352台の免震ゴムと158台のオイルダンパーを挟み込む免震化工事など、どれもが日本最大級の規模の大工事となった。

2つのドームの再築にあたっては、内部の図面や写真がほとんど残っていなかったため、過去の文献を可能な限り洗い出し、分析と考察を重ねたうえで失われたレリーフが復原されている。

東京駅丸の内駅舎の外観は西洋建築の風格を漂わせているが、ドーム内部のレリーフには十二支や鷲など日本的なモチーフが使われている。西洋的な建物の中に和の心が入っているというのが、東京駅の非常に大きな特徴だ。

丸の内駅舎の復原に合わせ、10月3日には、東京ステーションホテルもリニューアルして営業を再開。「ヨーロピアン・クラシック」のコンセプトのもと、重要文化財の中にある高級ホテルとして存在感をよりいっそう高めることとなった。


江戸と東京が交差する町、日本橋

日本橋の歴史は、1603年、徳川家康が江戸に幕府を開いた年に始まる。この年、日本橋が架けられ、その翌年には五街道の起点となった。やがて、日本橋周辺は、陸路だけではなく、水路を通って、全国から様々な品物が集まるようになり、多様な商店が連なる商業の中心地となっていく。また、日本橋のたもとには魚河岸も作られ、魚を売り買いする人々でも賑わうようになり、日本橋近辺には、江戸時代に創業した店が数多く残る。1683年創業の三越(創業当時は呉服店で現在はデパート)、1699年創業のにんべん(鰹節)、1834年創業の千疋屋(果物屋)、1849年創業の山本山海苔店(海苔)などだ。

初代の日本橋は木造で、その後、火災などで何度か焼失した。現在の石造りの橋は1911年に架けられたもので、1999年には国の重要文化財に指定されている。

日本橋近辺を歩くと、明治時代(1868-1912)や昭和時代(1926-1989)初期といった歴史を感じさせる建築物が残っている。その一つは1896年に完成した日本銀行本館だ。地上3階の石造りの重厚な建物で、東京駅と同じく、辰野金吾による設計である。関東大震災や第二次世界大戦による被害も少なく、ほぼ創建当時の姿を保っている。1974年に、重要文化財に指定された。

日本銀行と並んで立つ、7階建ての三井本館は1929年に完成した建物で、これも重要文化財に指定されている。当時、ニューヨークの三大建築事務所の一つと言われたトローブリッジ・アンド・リヴィングストン事務所の設計だ。三井本館の7階は三井記念美術館が開館しており、国宝を含む日本の伝統的な美術工芸品が展示されている。美術館の入口は、2005年に建設された日本橋三井タワー(39階建て)の1階のアトリウム(ガラスの天井の吹き抜け空間)に設けられており、近代と現代の建築の、文字通り、接点を見ることが出来る。


クールで、静かな吉祥寺(仮訳)

東京の情報誌の読者調査によると、東京の住みたい町の人気ランキングで吉祥寺は常にトップだ。東京以外に住む人や海外の人にも人気である。ジュリアン・ライオールが、この街の散策を楽しんだ。


吉祥寺は、眩い灯りと派手な街路の新宿から、ほんの数駅離れているだけだが、東京のほとんどの場所とは大きく違う。

大規模な再開発が進行中の駅のすぐ周りには、ユニークな店やレストランが軒を並べた狭い裏道の迷路が広がっている。そこでは、欧州スタイルのオープンカフェもそすっかり定着している。

道に面したテラスやデッキにいれば、芸術的で、若々しく、いく分、世間に反発するような地域の雰囲気を感じ取ることができる。

アートギャラリーの外には、額装された写真がイーゼルに立てかけられている。中古ショップのウィンドウを覗くと、そこには大きな赤いダルマが鎮座している。屋外のグリルで焼かれているドイツソーセージの匂いが、狭い街路に漂ってくる。活発な商売が繰り広げられる古着店の周りには、履物ブティックやお洒落な美容室、クレープや、世界のビールが驚くほど揃っているカフェバーがひしめき合っている。

街路の少し先にある「ライブハウス」のバーやクラブは、夜になると大変な賑わいを見せる。

吉祥寺は週末に人でごった返すが、近くの井の頭公園はこの街の中心で緑のオアシスになっている。桜や杉、松、ツツジに囲まれた公園の中程には、周囲の建物が見えない場所がある。そこでは、この都会の住人にとっては、何とも新鮮な感覚を得られる。

神田川の源として細く長く広がっている井の頭池は公園の中心にあり、大きな白鳥の形に似た足漕ぎボートや、手漕ぎボートで池に繰り出すことができる。

色鮮やかな鯉が、エサを求めて口をパクパクさせながらボートに近づいてくる。そうした中、カモは羽繕いに勤しみ、カメたちは池の土手で甲羅干しをしている。

この公園には、弁財天が祀られた小さなお堂、ふれあい動物園、水族館もある。公園の南西端には、『となりのトトロ』、『千と千尋の神隠し』、『紅の豚』といった著名なアニメ映画作品で有名なスタジオジブリの作品を展示している三鷹の森ジブリ美術館がある。

真っ赤な帽子をかぶったジャグラーを子供たちが感心して見つめている。別のジャグラーは風船をひねって動物の形に変えて見せている。遠くの方では、キーボードを持った男性が、ビートルズのメロディを奏でている。

子供たちがブランコや滑り台に興じる中、出店では、手作りのアクセサリーから、Tシャツ、ガラスのペンダント、犬用の服まで、ありとあらゆるものを売っている。似顔絵師がカップルの似顔絵を描く傍らでは、別のアーチストが若い女性の手の甲に、タトゥーを巧妙に描き出している。

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