September 2023
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日本茶の名産地とともに歩む木造橋
静岡県の大井川にかかる蓬萊橋(ほうらいばし)は「世界一の長さを誇る木造歩道橋」として1997年、ギネス世界記録として認定された。木の優しい踏み心地を感じながら、ゆっくりと橋を渡れば、川の流れと四季折々の景観が楽しめる。特に冬には富士山の雄大な姿も臨めるという。そんな蓬萊橋を訪ねた。
静岡県を流れる大井川の下流、島田市にかかる蓬萊橋は全長897.4メートル、通行幅2.4メートルの木造歩道橋。
「静岡県島田市は日本でも有数のお茶の産地です。蓬萊橋の成り立ちには、実は日本茶の歴史が非常に関係しています」と教えてくれたのは、島田市農林整備課農林土木係の高橋広道(ひろみち)さん。
「大井川流域は1540年頃からお茶の生産がさかんでした。徳川幕府が終焉を迎えて間もない1869年、最後の将軍・徳川慶喜(よしのぶ)を護衛してきた幕臣たちが、右岸にある牧之原台地でお茶を作り始めました。やがて栽培が安定化すると、左岸の島田方面からも開墾希望者が現れ、右岸と左岸の往来方法が検討されるようになりました。しかし、実は当時の大井川は流れが強く、橋が架けられない川として有名でした」
東海道(とうかいどう)*最大の難所とも呼ばれた大井川では、人足とよばれる川を渡る技術を身につけた熟練者の集団による川越(かわごし)制度**が確立し、発展していた。
しかし、1870年に制度が廃止され、島田の人足たちは職がなくなり、新たな雇用の場として、牧之原台地の茶園はうってつけとなった。一方、牧之原台地の旧幕臣たちも、生活物資を手に入れるためなどで島田方面と往来する際、 渡舟(わたりぶね)を利用していたが、増水すれば渡れなくなり、大井川を常時、自由に渡れないことは人々の大きな悩みとなった。そこで、島田市で宿場を営んでいた清水永蔵らが発起人となり、架橋運動を起こしたのだ。
「清水永蔵ら島田の開墾者組合の代表者達は、静岡県の県令(現在の知事に相当)」に架橋許可申請を提出し、日本で昔から継承されてきた伝統的な木造の橋を造成する技術を駆使して、この蓬萊橋をかけました」
お茶農家など農業従事者は無料、それ以外の方々からはわずかな通行料金を徴収する賃取り橋(ちんとりばし)***として蓬萊橋の歴史が始まった。
しかし、台風や大雨、川の増水等により、橋は幾度も流されてはかけ直された。橋の流失と復旧を繰り返し、1966年に全面的な災害復旧事業が完了。この時にコンクリート橋脚の蓬萊橋に生まれ変わり、現在まで姿を変えることなく至っている。
「木造橋は傷みやすく、台風被害などの修復にも費用がかかるので維持管理がとても大変です。しかし、当時から橋を守り続けてきた地元の方の想いを大切に、なるべく昔ながらの蓬萊橋の姿を残し続けているのです」
木造の橋は、渡る際の踏み心地が優しく、眺望を楽しみながら歩くのに最適だ。時折、富士山も見え、冬が大きくはっきりと見える日が多いという。また、毎年5月には橋の欄干に「ぼんぼり」****と呼ばれる日本の照明を飾り、伝統的な舞踊、太鼓の演奏など、様々な催しが行われる「ぼんぼり祭り」が開催され、橋を架けた当時の趣を感じることができるという。
また、最近人気なのが、大井川左岸側にありマルシェやイベントが行われる「蓬萊橋897.4広場」や、お休み処兼物販販売所『蓬萊橋897.4茶屋』。
「テイクアウトの緑茶や抹茶ソフトなど茶の名産地ならではの商品を販売しています。畳敷きのベンチで日本茶をたのしみながら、周りの景色とよく調和している木でできた蓬萊橋の姿をゆったりと眺めに来て欲しいです」
* 東海道は古代・中世を通じて東西交通の重要な幹線道路でしたが、17世紀に交通体系が本格的に整備・発展を遂げた五街道の1つとしての道を指す。
** 川を歩いて渡る際に、輦台(れんだい)と呼ばれる台座や馬などで渡河させた制度。川越人足を雇う川札や、輦台を使用する切符の値段など厳格に整備され、独特の文化が生まれていたが、近代になって制度は廃止された。
*** 通行の際に通行料がかかる橋を指す。蓬萊橋の通行料は大人100円、子供(小学生以下)10円(2023年8月末現在)。
**** ろうそく立てに長柄をつけ、紙や絹で作った覆いのある灯具。柄をつけ下座に台座をつけた行灯(あんどん)のこと。