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October 2022

中尊寺金色堂

  • 中尊寺金色堂(中尊寺所蔵)
  • 巻柱に囲まれた金色堂の須弥壇(中尊寺所蔵)
  • 近くから見た「須弥壇」の金箔の孔雀の一羽(中尊寺所蔵)
中尊寺金色堂(中尊寺所蔵)

日本の東北地方の岩手県平泉町(ひらいずみちょう)にある中尊寺は世界遺産に登録されている。境内の中にある金色堂は、約1,000年前の創建当時と変わらぬ美しさを持つ、きらびやかな仏教建築の代表的な例である。

巻柱に囲まれた金色堂の須弥壇(中尊寺所蔵)

中尊寺は、2011年にユネスコの世界遺産に登録された岩手県平泉町所在「平泉−仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」の五つの構成資産の一つである。中尊寺の宝物・文化財を代表する金色堂は、12世紀に平泉が東北地方(奥州。現在の東北地方の大半の地域)の政治の中心地であった頃の姿を唯一とどめている建造物である。

金色堂は奥州藤原氏の祖である藤原清衡(ふじわらのきよひら)によって1124年に建立され、阿弥陀如来を祀ったものである。藤原氏により、既に大規模な仏教伽藍(がらん)として中尊寺は創建されていた。清衡は仏教に深く帰依し、11世紀後半に長く続いたこの地域の覇権争いで亡くなった人々の霊を鎮めるために、一辺わずか約5.5メートル四方、高さ約8メートルの金色堂を建立したと言われる。特に、平泉に平和な国、すなわち極楽浄土を求め、寺院や庭園、池などを造営した。中尊寺の極楽浄土を象徴するものとして、金色堂の内外は「皆金色(かいこんじき)」と称される、仏具を含めすべて金で覆われる様式である。

清衡以降、奥州藤原氏三代が今日の東北地方を統治したが、再び戦火が及び、1189年、平泉の都はほぼ壊滅し、短命に終わった。しかし、注目すべきことに、金色堂はその災禍を免れた。荒廃の危機に数多く見舞われたが、寺僧らの団結や時の政権や権力者などからの長年にわたる様々な援助や保護、修復によって、創建当時から金色堂で使用されている構造と部材のほぼ9割が未だ現存しているという。現在はより大きな建物の中に収容され、ガラスで保護されているが、1000年近くの時を経ても、往時のままの姿が保たれている。

中尊寺の僧侶、破石晋照(はせき しんしょう)さんは、「金色堂には、細部に至るまで、当時の仏教美術の粋が見受けられます。恐らく、創設者は京都から最も優れた技術者を呼びよせ、完成させたのでしょう。また、螺鈿(らでん。螺鈿細工) などの装飾は奥州藤原氏の文化を代表する仏教美術です」と話す。

藤原氏三代を安置する台座「須弥壇(しゅみだん)」は、槌で形が打ち出され、金箔が貼られた孔雀の模様を描いている。浮き彫りのような立体感ある造形が非常に美しい。台座を囲むように「巻柱(まきばしら)」と称される4本の柱があり、蒔絵*、螺鈿、金で豪華に飾られている。極楽浄土に住むという神話上の半人半鳥の迦陵頻伽(かりょうびんが)を描いた「金銅華鬘(こんどうけまん)」と称される銅製の荘厳具は柔らかい金色の輝きを放っている。

近くから見た「須弥壇」の金箔の孔雀の一羽(中尊寺所蔵)

ヴェネツィアの商人であり、探検家でもあったマルコ・ポーロの『東方見聞録』(1300年頃)には、彼が中国で聞いた、「莫大な量の金」と「純金の屋根を持つ宮殿」がある「ジパング」(日本)という場所が登場する。一説では、マルコ・ポーロが聞いた宮殿は金色堂であると考えられている。

破石さんは言う。「この地域から大量の金が産出され、金色堂の建造に多用されたことは事実ですが、「宮殿説」の歴史的な根拠は今のところないのです」。

ただ、今日のまぶしく輝く金色堂を見ていると、13世紀にマルコ・ポーロが伝え、その後コロンブスなどの探検家たちが夢見た「黄金の国」は「平泉のことだったのではないか」と想像したくなることを破石さんも理解できるという。

極楽浄土の魅力を放つ金色堂は今も人々を引き寄せてやまない。

* Highlighting Japan 2022年5月号「日本における漆の歴史と文化」参照 https://www.gov-online.go.jp/eng/publicity/book/hlj/html/202205/202205_01_jp.html