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February 2022

大震災からの復興のシンボル「女川駅」

  • 2015年3月にオープンした女川駅の駅舎
  • 女川駅から臨む商業施設「シーパルピア女川」と、その後ろにある海
  • 2011年の東日本大震災前、2007年に撮影された女川駅の駅舎
  • 美しいタイルアートが施された女川駅の女川温泉ゆぽっぽの浴場
  • 女川町の中心部の空撮。画面中央の白い屋根の建物が女川駅。駅からレンガの道がまっすぐ海に向かって伸びている。
2015年3月にオープンした女川駅の駅舎

宮城県女川町(おながわちょう)の女川駅は、2011年3月の東日本大震災で大きな被害を受けたが、4年後に再建され、復興が進む町のシンボルの一つとなった。

女川駅から臨む商業施設「シーパルピア女川」と、その後ろにある海

2011年3月11日、東北地方の太平洋沖を震源とするマグニチュード9.0の地震が発生した。その直後、巨大な津波が東北地方や関東地方の太平洋沿岸を襲い、多くの地域に深刻な被害をもたらした。

最も被害の大きかった地域の一つが、宮城県女川町である。女川町は当時、女川港周辺を中心に約1万人の人が住む、漁業と水産加工業が盛んな港町であった。しかし、最大約15メートルの津波によって町のほとんどは破壊され、死者・行方不明者は800名以上にのぼった。

女川港から約200メートル離れたJR石巻線の女川駅は、ホームが一つに平屋建ての駅舎の小さな駅であったが、観光客の来訪や住民の通勤・通学のための交通の要所として重要な役割を担っていた。また、駅の近くには町役場などの公共施設も立地しており、町の中心的な存在でもあった。しかし、津波によって駅舎は跡形もなく流された。駅に隣接する温泉施設で、地元の人や観光客で賑わっていた「女川温泉ゆぽっぽ」も失われてしまった。

2011年の東日本大震災前、2007年に撮影された女川駅の駅舎

女川町は大震災から半年後に復興計画を策定し、復興に向けて歩み始めた。女川町は、高台に住宅地を整備するとともに、駅を核として、安全で活気ある町を目指して、女川駅周辺の土地は海面の高さよりもさらにかさ上げし、そこに公共施設、商業・観光施設を集約する計画を進めた。

そして2015年3月、石巻線の全線復旧に合わせ、新たな町のシンボルとして女川駅が開業した。再建された駅は、津波の被害を防ぐために、以前の場所からさらに約200メートル内陸側の、約9メートルかさ上げした土地に建設された。3階建の駅舎を設計したのは、世界的な建築家、坂茂(ばん しげる)氏である。その白く大きな屋根は、ウミネコが羽ばたく様子をイメージしてデザインされている。2階には「女川温泉ゆぽっぽ」が併設されており、浴場の壁は、世界的に活躍するアーティスト・千住博(せんじゅ ひろし)氏らの原画による、富士山や森の鹿を描いた美しいタイルアートで仕上げられた。未来の明るい女川町をイメージしたという。3階にある展望デッキからは、女川町の街並みと女川港を見渡せ、冬には海から昇る朝日を眺めることができる。また、駅舎前には、無料で楽しめる「足湯」も設置された。(「女川温泉ゆぽっぽ」は修繕のため、現在(2022年2月)、休業中)

美しいタイルアートが施された女川駅の女川温泉ゆぽっぽの浴場

「2007年に初めて女川駅を訪れた時、駅周辺には多くの建物が並び、駅前からも、ホームからも海は見えませんでした」と村松拓(むらまつ たく)さんは話す。東京の会社に勤める村松さんは、休日に全国各地の海が間近にある駅を巡り、彼のウェブサイト「海の見える駅」に写真と文章で紹介している。

村松さんが女川駅を再訪したのは、最初の訪問から10年後の2017年。大震災を経て、復興が進んだ駅周辺の風景は一変していた。駅の改札を抜けると、村松さんは女川湾まで抜ける一直線のレンガの敷かれた道を進んだ。ゆるやかな勾配で下る道の先には、海が顔を出していた。道沿いには飲食店や日用品店などが出店する商業施設「シーパルピア女川」が営業しており、観光客や地元の人々で賑わっていた。

女川町の中心部の空撮。画面中央の白い屋根の建物が女川駅。駅からレンガの道がまっすぐ海に向かって伸びている。

「かつての面影をまったく目にすることができなかったことは、津波の被害の大きさが想像以上のものであったこととは言え、悲しかったです」と村松さんは話す。「しかし、それと同時に、町の賑わいに出会えて、とても嬉しくもありました。未来に向けて町がさらに発展することを楽しみにしています」

駅を核にした町づくりが、女川町の未来を切り拓いている。