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INDEX

  • 特別史跡旧閑谷学校
  • 地元産の「備前焼」で作られた屋根瓦
  • 石塀
  • 講堂内部
  • 鶴鳴門
  • 講堂からの景色

October 2020

350年の時を経て耐久性を実証する閑谷学校

特別史跡旧閑谷学校

江戸時代(1603 ~1868)初期に当時の建築技術の粋を集めて建てられた閑谷(しずたに)学校は、堅牢な建造物にこだわった施工によって、創建350年を経た今日なおその輝きを失わない。

地元産の「備前焼」で作られた屋根瓦

岡山県の東部、備前市の山中に、350年前に建てられた「庶民のための公立学校」の建物群がある。江戸時代の建築技術の粋を集めた「閑谷学校」であり、現在は「特別史跡旧閑谷学校」として国宝「講堂」を含む建物が約350年前から建設された当時のままに保存されている。

江戸時代の学校は、全国の各藩で家臣(大名の家来)である武士の子弟を教育する「藩校」が中心であった。しかし、当時の岡山藩主、池田光政(1609~1682年)は、武士の子弟向けの藩校とは別に、庶民の子弟を育成することは藩の発展につながると考え、庶民に開かれた学校が必要と考え、家臣の津田永忠(つだ ながただ)に学校の建設を命じた。それが、庶民のための日本初の公立学校「閑谷学校」の成り立ちである。閑谷学校の名前は、閑静な環境の谷あいの地に由来している。

津田永忠は、約30年をかけ堅牢(けんろう)で壮麗な外観を持つ建物を完成させた。約38,000平方メートルの敷地のうち大部分は、1701年に完成した765メートルの長さに及ぶ石塀(せきへい)に取り囲まれている。石塀は、形の違う石を精緻に組み合わせ、滑らかな曲面に仕上げた石工の仕事である。完成から300年以上を経た今も石のずれや狂いがほとんどなく、石の隙間に草木1本生えていない。石塀は、地表とほぼ同じ高さの石が地中に埋め込まれているので、重さで沈み込むことなく、美しい姿を保っている。

学校の入り口である校門(鶴鳴門(かくめいもん))を抜けると、聖廟(せいびょう)(儒学の祖、孔子を祀る建物)、講堂などの建物が、建設当時の姿で出迎えてくれる。1953年に国宝に指定された講堂を始め、ほとんどの建物が重要文化財や登録有形文化財に指定されている。

石塀

驚くのは、1964年まで講堂などの建物が県立和気(わけ)高校閑谷校舎(当時)の一部として利用されていたことである。江戸期に造られた学校が、ほんの半世紀前まで実際の学び舎(まなびや)として機能していたのである。つまり、当時の高校生たちは国宝で学んでいたということになる。更に現在も、岡山県青少年教育センター閑谷学校の入所者は、国宝の講堂で論語を学んでいる。

閑谷学校の建物群の中心を成す講堂には、工事の指揮を執った津田永忠の確固たる建築思想を見てとることができる。

講堂内部

土台には水分による腐食を避けるために、赤土や貝殻を焼いた石灰に松脂(まつやに)や酒を混ぜた和風セメントが打たれ、重厚な入母屋(いりもや)造り*を支える。屋根瓦に使われているのは、岡山県備前地域を産地とする「備前焼」である。通常の瓦の寿命が60年と言われる中で、耐久性、耐水性に優れた備前焼は、300年以上経過してもほとんど劣化することなく、当時のものが現存し、雨風に耐えている。

講堂は10本のけやきの円柱に支えられている。四方に上部が丸みを帯びた花頭窓(かとうまど)が設けられ、講義時の明かり採りの役割を果たす。何よりも火災を恐れた津田永忠は、室内で行灯(あんどん)など、火を使う照明を使わなくても済むように、自然光による採光を心掛けた。講師や生徒の休憩室である飲室に設けられた炉も、薪を燃やすことは厳禁とされ炭火のみが許された。

鶴鳴門

講堂の漆塗りの床は、数百年の間、ここに人々が集うことで磨き上げられ、鏡のように外光を反射する。竣工以来、漆のふき替えや床の張り替えは、一切行ってないという。

旧閑谷学校保存会事務局長の木山潤郎(きやま じゅんろう)さんは津田永忠の建築思想について、こう語る。

講堂からの景色

「建築を指揮した津田永忠は、将来、岡山藩の財政が苦しくなり学校の管理が行き届かなくなった時のことも考え、今でいうメンテナンス・フリーの材料や工法を駆使し、少々の風雨や地震では倒れない頑強な建築にこだわったのです」

講堂は、現在も様々な催しの会場となり、時にはクラシック音楽の演奏会場としても利用されている。幕藩体制が消滅してから150年以上が経つが、21世紀の今も地域に守られ活かされ、本年、旧閑谷学校は創建350年を迎えた。

* 入母屋造は伝統的な屋根を持つ建物様式の一つ。屋根の上部が、長辺側から見て前後2方向に勾配をもち、下部は前後左右の四方向へ屋根の勾配がある。