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  • 旧開智学校校舎
  • 龍、雲、天使の彫刻
  • 建築当初の姿に復元された旧開智学校の教室、廊下、階段

June 2020

文明開化を告げる校舎建築

旧開智学校校舎

日本の本格的な近代化は1868年からの明治時代に始まる。以降、建築も例外ではなく、西洋スタイルを取り入れた建物が日本各地に次々とつくられた。一見すると優美な西洋風建築の「旧開智学校校舎」も、そうした建物の一つである。

龍、雲、天使の彫刻

長野県松本市の中心部にある旧開智学校校舎は、1876年、日本の昔ながらの建築工法を踏襲する大工の棟梁が洋風建築の技法を取り入れて建てたものである。時代は、明治初期、250年以上に及ぶ封建社会が終わり、新しい技術から教育まで、あらゆる面に西洋文明を取り入れて文明開化しようとしていた時期であり、西洋の様式を取り入れた建物が全国で盛んに建てられた。

美しい白い漆喰の外壁やガラス窓が印象的な校舎は、一見すると西洋スタイルの建築に見える。しかし、石積みのように見える腰壁と四隅は、実は石のような色合いの漆喰で描かれたもので、レンガの柱のように見える部分も、ペンキでレンガ風に塗られた木の柱である。また、柱には寺院に使われていた木材が転用されている。玄関の屋根とバルコニーは日本の伝統的な建築に用いられる“唐破風”(からはふ)様式である。バルコニーは仏教寺院風の雲の彫刻で飾られ、庇(ひさし)には、東洋で古来から建物を彩るモチーフ「龍」の彫刻が施されている。バルコニーを飾る雲の上には、2体の彫刻の天使が校名の額を掲げて飛んでいる。そして、その上には大きな八角形の塔屋が立っている。

こうした旧開智学校校舎の奇妙で不思議な建築様式は、『擬洋風建築』と呼ばれる。

建築当初の姿に復元された旧開智学校の教室、廊下、階段

旧開智学校校舎・学芸員の遠藤正教(まさのり)さんは「1873年の開校時、開智学校の校舎は使われなくなった寺を再利用したものでした。新校舎建設には、希望にあふれた新しい時代にふさわしい建物が必要だという、当時の人々の思いがあったのだと思います」と語る。

設計、施工を託された地元の大工棟梁・立石清重(たていし せいじゅう)は、東京や横浜へ赴き、西洋スタイルの建築を見学して参考にしながら、これまで培ってきた技術と創意工夫で、独自の擬洋風校舎を造り上げた。

交易の要衝として古くから栄えた松本市は、江戸時代の寺子屋の伝統を受け継ぎ、教育に篤(あつ)い地として知られる。1872年に明治政府が近代的な学制を発布した3年後の統計によると、松本市を中心とする地域(旧筑摩県)の就学率は全国平均35.6%の2倍、71.5%に達し、竣工した開智学校には、1000人以上の児童が集った。校舎の建設費用のおよそ7割は地元住民の寄付で賄われたと言われている。

同時代、日本各地に建てられた擬洋風建築は、やがて、本物の西洋建築ではない、機能的ではない、などの理由から次々と取り壊されていったが、そうした中でも、開智学校校舎は新校舎が建設される1963年まで小学校として使い続けられた。

「開智学校には、代々の教師たちが歴史ある校舎で学ぶ意義を唱えた資料が残されています。また、卒業生たちも校舎修復の際は寄付を行うなど、保存活動を続けてきました」と遠藤さんは話す。

長年の使用の中で改築された箇所もあったが、新校舎建設後の1964年に建築当初の姿に復元された。校舎内部も、重厚な雰囲気の講堂や、ステンドグラスの内部装飾など、細部まで当時のままの姿を現在でも見ることができ、文化的価値が高いとして、2019年には、近代学校建築では初めて国宝に指定された。

現在の松本市立開智小学校の児童は旧校舎の清掃を、誇りを持って行っており、街に刻まれた歴史を未来へ伝える一助となっている。