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Highlighting JAPAN

クラスルームからボールルームへ

社交ダンスは、言うまでもなく西洋発祥のダンスであるが、日本においてもその愛好者は非常に多い。東京で社交ダンスに情熱を傾ける二人の若者と、彼らを指導するベテランのダンス講師に話を聞いた。

夕時、柳田一気さんは学校の制服から、優雅な黒いスラックス、シルクのシャツ、そして艶のある靴へと身支度を整えていた。

背筋を伸ばし、腕を差し伸べ、確かなステップを踏みながら、旋回や回転を繰り返していると、きっちりとなでつけた黒髪から汗がしたたり落ちてくる。しっかりと固定された腕の中には、ダンスパートナーである松木理乃さんが収まり、周りの生徒たちの喝采を浴びながら、二人はフロアを優雅に舞い踊る。松木さんのポピーレッドのドレスは、遊園地の回転遊具のようにくるくると回転する。

この高校生のペアは、社交ダンス(ボールルームダンス)の全国大会に向けた準備の真っ最中である。

6月の日本インターナショナルダンス選手権大会に続いて二人が挑戦するのは、8月に行われる高校生のための全国大会である。

柳田さんはダンス好きの祖父の勧めで小学1年生から社交ダンスを始めた。「毎日3~4時間練習します。大会の2~3週間前になると、練習はもっと厳しくなってきます」と柳田さんは言う。

遠方から練習に通うために二人とも部活や友達との遊びを諦め、ダンス講師である内田芳昭さんの指導を受けている。内田さんは妻の義子さんと共に都内西部にあるダンススクールを経営している。

内田夫妻は社交ダンスを知り尽くしている。1960年代、二人は10代の時に大学のダンスサークルでチームを組んで以来数十年にわたり、世界各国のプロの大会でダンスファンを魅了してきた。

夫妻のスクールは、今年設立50周年を迎えるが、内田さんによると日本の社交ダンスの歴史はそれよりもはるかに長いと言う。

ウィンナワルツなど今日でいう「スタンダード」な社交ダンスは、1880年代に鹿鳴館で初めて日本に紹介された。鹿鳴館は東京の中心部にあった2階建ての巨大な建物で、地位の高い日本人が来日した外国の要人と交流し、社交ダンスなどの西洋文化に触れるために建てられた。

「西洋文化を理解・実践することで、日本人がより上手く外国人と渡り合えるようにしようとしたのです。その後、1940~50年代になって、社交ダンス用ではありませんでしたが、ダンスホールが一般に広がりました」と日本ボールルームダンス連盟の副会長も務める内田さんは話す。

こうしたホールで楽しまれたのはジルバやビバップなどのアメリカンタイプのダンスだったが、日本経済が成長し、人々の興味が様々なものへと広がると、社交ダンスも一般市民の間に浸透し始めたと言う。内田さん自身は7歳の時に初めて伯父のバーの店員からダンスを教わった。

社交ダンスの人気はその後も徐々に広まり続け、1996年に日本映画『Shall We ダンス?』が公開されると頂点に達した。この映画は生活に疲れたサラリーマンが、東京のとある駅で通勤電車を待っている時に見つけたダンススクールで経験する、様々な試練を描いたものである。

しかも、映画の中のスクールは、現在の場所に移転する数年前まで開いていた、駅のプラットホームから見える自身のスクールがモデルになっていると内田さんは言う。映画のクルーが何回か内田さんのスクールを訪問し、内田さんの生徒も映画に出演したと言う。

「当時はマンツーマンのレッスンしか行っていませんでしたが、映画が公開されるとレッスンの順番待ちに長い列ができました。どこのスクールも同じ状況でした。インストラクターが足りなかったのです」と内田さんは言う。

今日ではインストラクター不足は解消されている。内田さんによると日本に有資格のインストラクターは6,500人おり、社交ダンスの専門スクールは1,600前後あると言う。

一方で、政府発表の数字によると、日本の25歳以上の社交ダンスのダンサーの数は2016年時点でおよそ125万人である。全国で毎年、延べ150万人もの日本人ダンサーが大会に参加しているという報告もある。

その一人である高校生の柳田さんの夢は、尊敬する恩師の期待に応えることである。国際的な舞台で競い、いずれは内田さんのスクールのインストラクターチームに加わりたいと考えている。

「社交ダンスは難しいです。ステップやダンス、ワルツやルンバなどを学ぶだけではなく、音楽に合わせて、観客の心を動かす表現力を身に付けなければなりません。まだそこまではできませんが、それが目標です。ダンス以外のことは考えられません。今はダンスが全てです」と柳田さんは言う。