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Highlighting JAPAN

津波災害からの復興と新しいまちづくり

宮城県女川町は2011年3月の東日本大震災の津波によって大きな被害を受けたが、中心市街地をコンパクトに再生することによって、町の安全とにぎわいを取り戻している。

小さな入江や湾が複雑に入り組んだ東北地方の太平洋沿岸に宮城県女川町がある。世界的な漁場の一つである金華山沖を間近に控えた女川町は、年間を通じて様々な魚介類が豊富に水揚げされることから、漁業と水産加工業を中心とする港町として発展してきた。

しかし、2011年3月11日に発生した東日本大震災によって町は壊滅的な被害を受けた。最大約15mの高さの津波が町を襲い、人口約1万人のうち、死者・行方不明者は827名に達し、海岸沿いにあった建物のほとんどが破壊された。行政機能は麻ひ状態となり、産業基盤もほぼ失われてしまった。

しかし、震災直後に町の少年が作った「女川は流されたのではない 新しい女川に生まれ変わるんだ 人々は負けずに待ち続ける 新しい女川に住む喜びを感じるために」という短くも心打たれる詩を合言葉に、町はマイナスからの復興に取り組んだ。

町は震災から約2ヶ月後に都市計画の専門家、町の商工会や婦人会の代表者などをメンバーとする復興計画策定委員会を設立、公聴会を開催し町民の意見を反映しながら、復興計画の策定を進めた。そして、震災から約半年後に復興計画を決定、「減災」を基本理念にした「新しい港町づくり」が始まった。

女川町は震災前、山に囲まれた海岸沿いの限られた平地で多くの住民が生活をしていた。住民が安全に暮らせる町へと復興するために、町は山を削って住宅地を造成し、削り出した土で平地をかさ上げし女川駅と女川港の周辺に教育、医療、交通、商業、行政の拠点を集約し、コンパクトな中心市街地を再建した。住宅地から中心市街地へと人の流れを集約化し、人口減少が進む中でも持続的ににぎわいを創り出せる町に再生するためである。

震災から4年後の2015年3月にはJR女川駅が再開された。ウミネコが羽ばたく姿をイメージした白い屋根が特徴の新しい駅舎は、世界的建築家の坂茂氏が設計を担当した。駅舎には温泉温浴施設「女川温泉ゆぽっぽ」が併設され、浴場の壁には、著名な日本画家の千住博氏による美しいタイル画が飾られている。また、3階の展望デッキからは、女川町の街並みと女川湾を一望することができるなど、女川駅は町の玄関口として新たなスタートを切った。

さらに2015年12月には、女川駅と女川港とを結ぶレンガの遊歩道に沿って、「海が見える公園のまち」をコンセプトとする商業施設、「シーパルピア女川」が開業した。施設の運営は、女川町、商工会など公民連携により設立された町づくり会社が担当している。シーパルピア女川は山と海に囲まれた景観を楽しみながら町内外の人が集える場所であると同時に、レンガみちが災害時に高台へと向かう避難路にもなるように設計されている。

「施設には、震災後の事業再開のほか、町内外から創業する新たな事業者等が飲食、土産もの、日用品など約30店が出店しました。そのお陰で住民はもちろんたくさんの観光客で震災前を上回るにぎわいが生まれています」と女川町産業振興課の土井英貴さんは言う。

新しい街並みが整う中、慰霊碑の建立や震災遺構の整備、若い世代による震災の記憶を後世に伝える取組みも行われている。2013年2月に、女川町立女川中学校の生徒たちが中心となり、町内21か所の全ての浜に震災の教訓を記した石碑を建てる「女川いのちの石碑」プロジェクトが始まった。「1000年後の命を守る」を合言葉に募られた寄付金によって、現在までに17基が建てられている。住民の心を打つ詩を作った少年は、高校卒業後、2018年に女川町の職員となり、復興と新しい女川づくりを担う一人となった。

女川町は、震災を忘れることなく、新たなにぎわいの町へと生まれ変わりつつある。