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Highlighting JAPAN

 

 

ヨーロッパを魅了した伊万里の歴史

17世紀後半ヨーロッパへと渡った伊万里焼は、高級実用品としてだけでなく宮殿を飾るステータスシンボルとなった。現在伊万里焼の窯元が集まる大川内山を訪ね、その歴史を探った。

日本の磁器の歴史は約400年前、有田で陶工が白磁の陶石を発見した時に始まる。ほどなく有田を中心とした一帯で磁器が生産されるようになり、最寄りの伊万里の港から国内各地へと出荷された。それらは「伊万里から運ばれてきた磁器」として、「伊万里焼」「伊万里」と呼ばれ、江戸期のものを総じて「古伊万里」という。
17世紀中頃、江戸幕府が鎖国政策を取る中、唯一外国との窓口となっていた長崎から、ヨーロッパへ向けて古伊万里の輸出が始まる。それまで中国磁器が流通していたが、明から清への過渡期の混乱のために磁器の生産が中断した。それに代わるものを探していたオランダ東インド会社が、古伊万里をヨーロッパへ運ぶようになる。

​白く美しい磁肌、華やかな絵付などから、古伊万里は当時のヨーロッパで高い人気を誇りインテリアとして重宝されていた。貴族たちは競ってその製法を知ろうとした。
中でも1670年代、ドイツのザクセン選帝侯アウグスト強王は伊万里を盛んに収集し、その製法を自国に取り入れ、マイセンの誕生に影響を与えたのである。1680年代以降、ヨーロッパ王侯貴族の東洋趣味を背景に、室内装飾用の大型の壺と瓶も盛んに輸出された。

伊万里焼の窯元が集まる大川内山(おおかわちやま)は、切り立つ岩山に囲まれた佐賀県山間にある。「ここが特別な焼き物の里となったのは、約350年前のことです。」と伊万里鍋島焼協同組合の原貴信さんは語る。

磁器の誕生から約50年後、佐賀藩は徳川幕府に献上する最上級品を製作するため、高い技術を持つ職人たちを大川内山に移住させ「藩窯」とした。背後に険しい岩山の連なる地を選び、里の入り口には関所を設置して、職人の技術が他に漏れるのを防いだ。ここで特別に作られた磁器は、佐賀藩主の名から「鍋島焼」「鍋島」と呼ばれた。

鍋島焼の流れから、現在の伊万里焼には、華やかな絵柄で磁器の最高峰である色鍋島、白磁に藍一色が映える鍋島染付、大川内山で取れた青磁原石から作られる鍋島青磁の3つの特徴を持つ。

大川内山には年間約22万人が訪れる。30ある窯元を歩いて回ることができる上に、三方を山に囲まれた絵のような景観も旅行者の目を引きつける。年々外国人観光客数が増加している一方、日本人客は減少傾向にあり、若い世代にその魅力をどう訴えていくかが課題である。「伊万里焼の風鈴を町中に飾る風鈴祭など地域のイベントを20~30代の若手が中心となって企画し、SNSを活用して人々の関心を高める取組を行っています。」と原さんは言う。

30の窯元の中には、古くは江戸期から職人が代々継いでいる窯で19代目、明治生まれの窯で5~ 6代目を数える窯もある。昭和に開窯した窯元が多く、どの窯も鍋島焼の高い技術と伝統を受け継ぎ、現代の暮らしに沿う器を生産している。小規模の個人経営が多いため、ろくろから下絵、上絵と全行程をこなす窯主も少なくない。彼らは、日中は生活の器を製作し、夜は自らの作品作りに没頭する。今なお鍋島の家紋をつける現代の鍋島焼の窯などでは、一点物の作品を作り続けている。
また佐賀県には有田窯業大学校(2016年佐賀大学に統合)があり、技術を身に付けた者が大川内山へやってくる。藩窯時代から続く気風、技術と伝統を礎とした作品性が、今もこの焼き物の魅力である。