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Highlighting JAPAN

魚群探知機の未来

約70年前、ある日本人の兄弟が超音波を用いて、海の中で魚群を見つけ出す装置を実用化した。現代、世界中でその会社の製品が使用されている。

兵庫県西宮市に本社を置く古野電気株式会社(以下:FURUNO)は、世界80カ国以上に販売拠点を有する世界有数の船舶用電子機器総合メーカーである。もともとは、九州の長崎県で1938年に創業したラジオの販売修理業を営む個人商店だった。その創業者が、漁船や貨物船の電気艤装工事を請け負いながら、1948年に世界で初めて魚群探知機の実用化に成功したことを契機に、大きく飛躍することとなった。

「創業者の古野清孝(1920~2013年)が魚群探知機の開発に着手したのは1945年で、軍用の超音波測深機を手に入れたことがきっかけでした。当時の学説では、超音波によって海底の地形は分かっても、生き物である魚の姿は超音波測深機では捉えられないとされていましたが、1943年ごろに船上で電気工事をしていた際にベテラン漁師から『泡の出ているところには魚がたくさんいる』という話を聞いており、創業者は魚群探知機の開発を始めたそうです。超音波は固い海底の地形だけでなく空気にも反射することから、おそらく魚の姿も映し出せると考えたのです」と、FURUNOの取締役で技術研究所所長を務める西森靖博士は話す。

 試行錯誤の末、清孝は魚の浮き袋にある空気の反射などを利用して魚群の探知を成功させ、この機器を「魚群探知機」と命名した。弟の清賢とともに新会社を設立して魚群探知機の本格的な販売に乗り出したが、現場の漁師たちが機器の性能を信用せず、また使い方も浸透していなかったこともあり、当初は全く振るわなかった。そこで清孝は清賢を長崎県五島列島の漁船に漁労長として送り込み、清賢は魚群探知機を駆使し漁獲量の大幅アップを実現させた。彼は魚群探知機を使って得た様々な情報を現場の漁師たちにフィードバックすることで、魚群探知機の有用性とFURUNOへの信頼が一気に世間に広まった結果、FURUNOは販売面でも大きな成功を収めた。

「初期の魚群探知機は1台60万円で、当時の物価で1軒の家が買えるほど高価なものでした。それでも、当時、長崎市にあったFURUNOにはリュックサックに現金を詰めた漁業関係者が日本中から集まって来たと聞いています」と西森博士は笑顔で語る。

 その後、FURUNOは魚群探知機の改良を進めると同時に、漁船や小型船でも使用できる漁船用無線機や小型船舶用レーダーなどの新製品を次々に開発して、1956年には海外輸出を開始した。ユーザーの不便を利便で応える背景には、古野清孝の徹底した「現場種技(技術の種は現場にある)」という熱意があった。彼は常に「君たちは電気屋だと思うな。船頭だと思え」と社員を叱咤激励していたという。

「FURUNOは世界初となる潮流計や海鳥レーダーなどの製品を数多く生み出してきましたが、それらはみな漁業に従事する人々の『こういうものが欲しい』という要望に応え続けてきた結果生まれたものです」と西森博士は言う。

 こうした技術やノウハウを活用し、大型船舶やプレジャーボート向けの電子機器、さらには医療や防災、高度道路交通システムなど幅広い分野の製品を開発するようになったが、FURUNOの軸足は、今も今後も漁業の世界にある。

「今後の課題として我々が最も重視しているのは、持続的な水産資源の管理です。現在、漁獲可能な魚の種類や量は、調査船から得られたデータを元に割り出していますが、広い海に比べると調査船の数はあまりにも少ないため、あくまで推定値に過ぎません。我々が注目しているのは、世界の海で使われているFURUNOの魚群探知機が計測した膨大なデータです。これらを一つに集めて解析できれば、より正確に水産資源を把握できるようになるでしょう。また、最近は魚の大きさや魚種ごとに漁獲量を厳しく制限して資源の維持管理を徹底する国も多くなっています。魚群探知機を実用化した当時は、食糧確保への貢献を通じて社会の役に立つことを使命としておりましたが、将来的には日本を含む世界全体で水産資源を適切に管理していくことが社会的な課題解決として重視されていくことになるでしょう。FURUNOが今後も社会の役に立ち続けるためにも、そうした地域で操業する漁業者が、魚体長だけでなく、ニシンとサバといった魚種まで判別できるような魚群探知機の開発にも取組んでいます」と西森博士は話す。

 かつてベテラン漁師の経験や勘に頼っていた漁業を様変わりさせたFURUNOの技術は、未来のために海の恵みを守り、育てていく新たな力として大きな注目を集めている。