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Highlighting JAPAN

絹の道:フレンチ・コネクション

使命感と責任感の強いフランス青年が、日本の富岡と絹の都リヨンを結んでいる。

1868年に成立した明治政府は、200年以上も海外との貿易を制限してきた徳川幕府に替わり、進んだ技術や新しい社会制度を取り入れた。また政府は、西洋諸国からあらゆる分野の専門家を数多く招聘した。彼らは「お雇い外国人」と呼ばれ、日本の近代化に大きく貢献した。明治初期の官営工場、富岡製糸場の創設を任されたフランス人、ポール・ブリュナ[1840-1908]もその1人である。約150年の時を経て、ユネスコの世界文化遺産となった富岡製糸場では、フランス出身のダミアン・ロブションさんが富岡市国際交流員として活躍している。

国際交流員は、高い日本語能力を求められ、主に地方公共団体の国際交流担当部署等に配属され、国際交流活動に従事する。これは、総務省、外務省、文部科学省、一般財団法人自治体国際化協会(CLAIR)の協力の下、地方自治体が実施する「語学指導等を行う外国青年招致事業」(JETプログラム)で、外国青年を招致して地方自治体等で任用し、外国語教育の充実と地域の国際交流の推進を図る事業である。ダミアンさんは日本の大学院留学中にこの制度に興味を持ち、2013年に応募し、採用された。

「募集・選考のある自治体を調べていると、当時世界最大規模の製糸場が群馬県富岡市にあったこと、この創設に尽力したブリュナのことを知りました。同じフランス人として、ブリュナのことをとても嬉しく誇らしく思いました。ここなら特別な仕事ができると思い、富岡市に応募することに決めました」とダミアンさんは話す。ダミアンさんは、富岡製糸場を訪れる外国人要人の案内、国際交流事業のための通訳や翻訳、市民向けのフランス語教室の講師のほか、富岡製糸場に関する古いフランス語の契約書や記録文献の翻訳という当地ならではの仕事も務めている。

富岡製糸場は、明治政府が日本の主要輸出品目であった生糸の品質向上と大量生産を図るため、工場の設計、機械の導入から、就労や昇給の制度導入まで、すべてブリュナの指導のもと、1872年に官営模範工場として設立された。フランス式の建築様式と日本古来の工法が融合した木骨煉瓦造の建造物は、1987年に操業を停止した後も良い状態のまま現存している。製糸場と他の3資産を構成資産として『富岡製糸場と絹産業遺産群』は2014年にユネスコ世界文化遺産に登録された。

富岡製糸場の世界文化遺産登録を受け、かつて絹産業で栄えたフランス南東部の地方都市であるリヨン一帯でも歴史を見直す機運が高まり、富岡市との新たな交流も始まった。リヨンの絹織物産業は長くフランスの産業界を牽引してきたが、1860年代にヨーロッパに蚕の病気が蔓延したとき、日本の生糸を輸入して存続した経緯がある。2015年には、富岡市の訪問団がリヨン市を訪れ、『絹が結ぶ縁(SOYEUX DESTINS)』という企画展を外務省と共に開催し、その期間中には、ブリュナの出身地であるリヨン隣県のドローム県ブール・ド・ペアージュ市との友好都市協定の調印を行った。富岡製糸場にはブリュナが設立にあたってリヨン近郊から機械や技師を招いた記録もあり、リヨン北東部に位置するアン県では、絹関連の旧工場である銅製品製作所を博物館として残し、富岡製糸場と連携した取り組みも始まっている。

こうした交流に、ダミアンさんは通訳としてだけではなく企画立案にも携わっている。

また、アン県のセルドン市にある銅工場で、富岡製糸場創業時の繰糸の部品を作っていたことが判明した。「新事実が発見される歴史的瞬間に立ち会えたのは幸運でした。埋もれていた歴史が明らかになるのは、フランス・日本両国にとって、意義の深いことです。現在も富岡製糸場に関する研究は継続されているので、新しい発見に出会うことを楽しみにしています」とダミアンさんは話す。

この10月には、リヨンをはじめとする関連地域からの訪問団を富岡市に迎えシンポジウムが開催される予定で、ダミアンさんは準備のため忙しい毎日を送っている。

富岡製糸場の敷地内には、「ブリュナ館」と呼ばれるブリュナ一家が暮らした住宅も残されている。「ブリュナがどんな気持ちでここで過ごしたのか、よく想像することがあります。きっと、ブリュナは、使命感と責任感の強い人だったと思います。私もブリュナに倣って、日本とフランスの交流のために尽くしていきたいと思っています」とダミアンさんは語る。

明治期の日仏交流を結んだ絹の道を再びつなぎ合わせ、文化交流を紡ぎあげる現代のブリュナの姿がここにある。