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Highlighting JAPAN

気品溢れる「桐たんす」

ロブ・ギルフーリーが新潟県加茂市にある桐たんすメーカーを訪れた。

明るい色合いの長尺木材を左手でしっかりと押さえた大橋勉さんは、彼の仕事にとって重要なカギを握ると説明するタガネのような道具で接合部を手際よく切り出していく。「ノミ」と呼ばれるこの道具は、木材を削りすぎたり、大きな裂け目を生じさせたりしないため、タガネとは異なって、縦ではなく横に動かすことが求められる。「木目の見栄えが必ず最高な状態に仕上がるよう、ノミは切れ味が非常に良くなければならず、職人たちは細心の注意と最高の技巧で扱う必要があります」と大橋さんは言う。

大橋さんは、33年間、日本家具の真髄と言える桐たんす作りにその技法を活かしてきた。衣装箱とチェストを兼ねたようなこの桐たんすは、バルサ材に次ぐ世界で2番目に軽い木材である桐が材料となっている。

大橋さんは、新潟県加茂市にある朝倉家具で働いている。同社は、この地特産のたんすを製造する24の業者で構成される加茂箪笥協同組合の会員である。協同組合理事長の茂野克司さんによると、桐たんすは日本の北東部にあるこの地で220年にもわたり生産されてきているが、それは桐たんす作りに適した気候と桐材が豊富に手に入る状況が背景にあったという。ちなみに、桐は家具材としてはぎりぎりの強度なので、(製造技術の高い)日本で使われる以外、家具材としては、中国の一部を除くと他の国では滅多に用いられないそうだ。

「日本において桐たんすが発展したルーツは、江戸で10万人を超える人が亡くなったと伝えられる1657年の大火事『明暦の大火』にある」と茂野さんは説明する。

「多くの犠牲者が出た理由は、炎から逃れようとする人たちが荷車に乗せて引いていた、重くて移動しづらい『車箪笥』と呼ばれる箪笥が道をふさいだからでした。」

そのため、江戸幕府から車箪笥の廃止令が発せられ、軽くて移動しやすい桐材を使用したたんすが求められるようになったと茂野さんは言う。

「加茂には昔から桐の木が数多くあり、生産業者はそれらを材料として切り倒し、すべて手作りで桐たんすを生産していました」。朝倉家具の朝倉泰則社長はこう説明する。「木材の調達、製材・加工から製品作りに至るまでの一貫した工程が、今でも加茂独自の特徴として残っています」。

生産工程の一部は機械にとって代わられているが、大半は今でも手作りで行われている。

調達された木材は、まず屋外に1〜3年間置かれてタンニンなどの渋を抜くため大気にさらされる。この処置により、木材は確実に反りが減り、変色しづらくなる。

表面に鉋がけされた桐板は、比較的細長い部材へ切削され、慎重に薄片加工が施される。

生産責任者の朝倉厚志さんによると、これが生産工程で最も重要な段階であり、桐板それぞれの木目合わせがうまくいくか失敗するかが最後に出来上がる製品の「生きるか死ぬか」を決定づける分かれ目になるのだという。

本体と引き出しの組み立てにも同等の技巧レベルが求められるが、それは工程の全段階でネジや金釘が一本も使われないためなおさらのことである。組み立てが終わると、表面は様々な色調の「との粉」から作られた着色液でコーティングされ、その後に飾り取っ手や隅金具といった金具が取り付けられる。

「納品先の地域に応じて、異なる色の着色液を塗っています」。田中洋光さんは、珍しい形の刷毛で塗りを施し木目を際立たせながら説明する。「例えば、関西のお客さんは赤みがかった染め色を好みますが、関東では黄色の色合いが好まれています」。

現在、朝倉家具で働く6人の職人たちは年間150棹ほどのたんすを生産している。朝倉社長によると、30人を超える職人たちが年間800棹も組み立てていた1950年代の最盛期にはほど遠いという。実際に、ピーク時には200を超える製造業者がいたと朝倉社長は言う。

安価な機械生産の家具が市場に溢れたのは言うまでもなく、戦後に人々の生活状況が徐々に変化するにつれて、桐たんすの需要は落ち込んでいった。それでも、近年では海外からの関心を集めていることから、加茂の生産者には桐たんすの新たな黄金時代の希望がもたらされている。

「海外では日本を感じさせるものが高く評価されていることもあり、我々はこれからも由緒ある加茂桐たんすを作り続ける決意を固めています。」