Home > Highlighting JAPAN > Highlighting Japan February 2017 > なぜここに外国人

Highlighting JAPAN

震災の語り部

イギリス出身のリチャード・ハルバーシュタット氏は、東北にある石巻市復興まちづくり情報交流館中央館の館長としての新たな人生を送っている。

2011年3月に発生した東日本大震災による津波では死者・行方不明者数が約19,000人以上にのぼった。宮城県北部にある港町、石巻市、最大で8.6mの津波に襲われた。

石巻市は2015年、市民と来訪者との交流、震災の記録や教訓を共有する場として、「石巻市復興まちづくり情報交流館 中央館」を設置した。その館長を務めるのが、リチャード・ハルバーシュタット氏である。

「中央館の開館以来、来館者は34,000人を超えました。そのうちの1,500人以上は海外からの方です」とハルバーシュタット氏は話す。「海外の方から、被災地の詳しい話が英語で聞けるのはここだけだと言われることも多く、やりがいを感じています」

イギリスの大学で日本語を専攻したハルバーシュタット氏は、石巻専修大学に英語教員として職を得て1993年に着任した。ちょうどその頃、石巻市では地域おこしの一環として、約400年前に、仙台藩が貿易交渉のためにスペインに派遣した使節団の木造帆船「サン・ファン・バウティスタ号」を復元するプロジェクトが進んでいた。ハルバーシュタット氏は、プロジェクトに合わせて、石巻青年会議所が企画したサン・ファン・バウティスタ号にまつわる舞台劇に、造船を指導する外国人技師役として出演した。これを機にたくさんの仲間ができ、石巻との絆が深まることとなり、その後は青年会議所にも参加して、石巻の活性化にも取り組むようになった。

2011年3月11日に地震が発生した時、ハルバーシュタット氏は大学キャンパスで勤務中であった。周辺は水没し大学は孤立、情報はラジオ放送だけという不安な2日間を過ごした。3日目に、大学まで救出に来た親友に助け出されたが、もっとも親しい友人夫婦が亡くなったことも知った。

「震災直後は、誰もが生きて再会できた喜びと、大切な人を失った悲しみを同時に体験する極限状態でした」とハルバーシュタット氏は振り返る。「そうした状態にあっても、避難所ではみんな互いに助け合って過ごしました」

そのころイギリス大使館は、イギリス人に対して帰国勧告を行い、ハルバーシュタット氏も帰国のためいったんは仙台に向かった。しかし、石巻の人びとのことが頭から離れなかった。彼は、一晩悩んで「このまま帰国したら一生後悔する」と思うに至り、石巻にもどる決断をした。

震災後、ハルバーシュタット氏の生活は一変した。被災地に留まり復興に尽力する外国人として、取材や講演、出版の依頼が舞い込むようになった。また、長年勤めた大学を辞職し、交流館長に就任してほしいという石巻市長の依頼を受けることを決めた。

「過去に何度も津波を経験している石巻の人びとは、あれほど壊滅的な被害を受けても前向きで明るく元気です」とハルバーシュタット氏は言う。「私はどちらかといえば慎重な性格でしたが、震災を経験してから『なんとかなる』という大らかな気持ちが芽生えました」

震災から間もなく6年が経つ石巻は、復興住宅が建ち並び、駅前には新しく市民病院も建つなど、その姿を大きく変えようとしている。震災以前、街の中心地の過疎化と高齢化という課題を抱えていた石巻が、新たな街作りによって、活気がもどることをハルバーシュタット氏は期待している。

「石巻は派手な観光地ではありませんが、その分、普通の日本の良さを感じることができる素晴らしいところです」とハルバーシュタット氏は言う。「そして、自然災害とは無縁だと思われている国の方は、どうか防災を学びに交流館を訪ねに来てください」