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Highlighting JAPAN

世界は日本でひとつになる

日本は均質的な国だと考える人が多いが、実際には、恋人や家族、仕事のために、あるいは、戦争や紛争から逃れて、たくさんの外国人が日本に移り住んでいる。外国人たちは、日本を愛し、その言語や文化を身につけ、人々とつながりを築いており、また、その独自の文化や伝統を日本にもたらしている。以下に紹介する異なる3つの在日民族コミュニティからは、外国人たちが分かちあう趣と文化の感触を知ることができる。

大泉町は、人口約4万人の群馬県の町で、大手製造企業の工場が多くあったことから、1970年代後半から外国人労働者受け入れてきたため、きわめて多くの日系ブラジル人が暮らしている(“ニッケイ”は「日本人の子孫」を意味する)。実際、大泉町観光協会の中山正樹氏によれば、大泉町には、人口の約10%と日本で最も高い割合でブラジル人が集中しており、さらにペルーやボリビアといった国からの居住者も人口の5%を占める。

カンタ・ガーロ(“歌う雄鶏”の意)は、小規模ながら品揃え豊富な食料品店で、菓子やマテ茶、スパイスなどを販売している。この店を経営するクロキ一家は約25年間日本で暮らしている。クロキ一家は、ポルトガル語と日本語を難なく切り替えながら買い物客に対応し、翻訳や通訳も買って出る。カンタ・ガーロの壁には、ポルトガル語の求人募集広告や賃貸アパートのチラシがたくさん貼られている。

道の先には、大きなスーパーマーケット、タカラが賑わいを見せている。このスーパー内には、パン屋と総合精肉店があり、厚いステーキやリブ、ソーセージなど、ブラジル・スタイルのカットで提供されている。タカラ内のレストラン、ロデオ・グリルは、愛想の良いマルコ・アントニオ・ミヤザキ氏が経営しており、タカラの新鮮な合い挽き肉で作ったハンバーグを柔らかなロールパンに乗せたバーガーや、カリカリになるまでよく焼いた“シュラスコ”(ブラジルのバーベキュー)ソーセージ、唐辛子やタマネギ、ニンニク、ハーブから作られたピリ辛のハウスソースなど、人気のブラジル料理を数多く提供している。

日本初のブラジル料理店であるレストラン・ブラジルは、“シュラスコ”や“フェジョアーダ”など、ブラジル料理を専門に扱っている。オーナーのダニエル・イワタ氏の説明によれば、同店のシュラスコには、ブラジル人が好きなランプ・キャップと呼ばれる牛肉部位の“ピッカーニャ”を使用しているという。メニューには、串刺しにして炭焼きした鶏ドラムスティック、スペアリブ、ブラジル風ポークソーセージなどもあり、ライスやピクルスとともに提供される。

楽しみを求めて夜の街へ繰り出すならば、カミナルアへ向かうと良いだろう。この店のオーナーで、元プロ野球選手のノルベルト・セマナカ・ダ・ホッシャ氏は、おいしい料理とカクテル、スイーツなどのメニューを提供している。カミナルアの“カイピリーニャ”(非常に甘酸っぱいブラジルの定番カクテル)は、“カシャーサ”(さとうきびのお酒)から作られる。この店のコーヒーは見た目も味も濃く、加糖練乳とシナモンと一緒に提供される。デザートには、グアバペーストとクリームチーズ、チョコレートとバナナなどを混ぜて焼いたペーストリー菓子の“パステレス”や、 “ドゥルセ・デ・レチェ”というミルクキャラメルがある。

東京のグルメ街のひとつ、高田馬場は、大学が多い地域でもあり、ミャンマー(ビルマ)からやってきた人々を多く見かける。駅前の通りにはミャンマーのレストランやショップ、ミャンマー人向けのコミュニティ・グループがずらりと並んでいるのが特徴だ。

ミンガラバー(ミャンマー語で「こんにちは」の意味)は、1997年にオープンした高田馬場初のミャンマー料理店だ。この店では、“ラペ”(発酵した茶葉と、ゴマやピーナッツ、ニンニク、キャベツなどサクサクした食感の食材を加えたサラダ)のような人気料理を、魚醤やトマト、エビなどと共に提供している。米と一緒に食べることも多いラペは、ミャンマーで一番人気の高い料理で、飲みやすくウーロン茶に似た発酵茶のミャンマー茶とともに食べるのが好まれる。

数ブロック離れた場所にある何気ないオフィスビル、Tak 11には、11のフロアにミャンマーの食品や男性用の衣服、アクセサリーを販売する小さなショップがいくつかある。マザーハウスという店では、フレンドリーでおしゃべり好きな女性が様々な食材の使い方を説明したり、瓶詰めの風変わりな野菜を紹介したりしてくれる。店主のリリ氏によれば、買い物客の80%はミャンマー人だという。

サヤーマ・マヘーマー氏は、日本とミャンマーとの文化交流のために、2002年、日本ミャンマーカルチャーセンター(JMCC)を設立した。マヘーマー氏によると、外国人の労働環境が整っていた高田馬場に20年ほど前からミャンマー人がお店を出し始め、現在高田馬場には約1500人のミャンマー人が暮らしており、日本に住むミャンマー人は約1万人だろうと推測する。JMCCでは、日本人向けのミャンマー語のレッスンと、高田馬場に住むミャンマー人移民向けの日本語のレッスンを提供している。両国のボランティア・ホストと共に、マヘーマー氏は相談や、日本語・ミャンマー語間の通訳と翻訳を行い、新たに高田馬場にやってくるミャンマー人の新生活を支援している。

インド出身のジャグモハン・チャンドラニ氏は、1979年に初めて日本を訪れ、西葛西という江戸川区の町に住み始めた。チャンドラニ氏は、1981年からインド茶を日本に輸入し始めたが、当時、この町には駅がなかったと振り返る。当初、西葛西に住んでいたインド人はごくわずかで、インド料理店はまだ珍しかった。

ICT関係の1999年、2000年問題などが原因となってその状況は一変し、大勢のインド人ITエンジニアが西葛西へとやってきた。インド人エンジニアたちの約半数が厳格な菜食主義者だったため、外食は難しかった。

チャンドラニ氏は、シンプルな家庭料理を中心に、主に独身のエンジニアたちが食事をとれるカフェテリアを1999年にオープンした。エンジニアたちにとってこの店は、新しい土地に移り住んだときにつきものの孤独を癒す場所となった。チャンドラニ氏は次のように語る。「食事は生活の基本であると店を始めた時に実感した。この店を訪れる人々は次第に心地よさを感じるようになり、友情が深まった」。

近隣の日本人も、すぐにこのカフェテリアに興味を持ったとチャンドラニ氏は付け加える。「『どんな料理を作っているのですか?』と日本人から尋ねられた」。そしてチャンドラニ氏は、インド人以外の人々も店に迎えようと決意し、店をスパイスマジック・カルカッタと名付け、営業時間を拡大してランチタイムも店を開いた。この店は地域にインパクトを残した。

「食べ物は、橋のように、2つのコミュニティを結びつける非常に便利な“接着剤”になる」 とチャンドラニ氏は語る。「共通性を感じ、料理の味を楽しみ、食材や調理法について知れば、新しい何かを学ぶことができる」。このレストランは、近隣のインド人と日本人との間の絆を深めた。

現在、西葛西エリアを中心とする江戸川区には約2000人のインド人が暮らしている。チャンドラニ氏は、最初のレストランの成功後、南インド料理を中心に提供する分店を近所にオープンし、“マサラ・ドーサ”(カレー粉で調理したジャガイモをヒラマメから作られた薄いクレープ生地でくるんだ料理)や“イドリー”(ヒラマメと米から作られた酸味のある蒸しパン)などをふるまうことを決めた。チャンドラニ氏は、地元住民向けのインド・フェスティバルの企画にも参加している。2015年の秋、ディワリ・フェスティバルには約8000人(日本人およびインド人の来場者数)が足を運び、西葛西のコミュニティがひとつにまとまっていることが証明された。

より深く日本を探検すると、あなたが想像しているよりもずっと多文化であることがわかるだろう。日本ではブラジル、ミャンマー、インドのほかにもたくさんの国の人々が生活し、コミュニティを築いている。ぜひあなたも日本で世界旅行をしてみよう!