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Highlighting JAPAN

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連載 ご当地グルメの旅

長崎街道—九州シュガーロード(仮訳)

かつては薬として用いられていた砂糖。その味が日本人に親しまれるようになったのは、外国の貿易商が船で砂糖を持ち込んでからのことだった。そして、砂糖が運ばれた道は、シュガーロードとして知られるようになった。


多くの人に好まれる砂糖。人間は糖分によってエネルギーを得ることができるため、甘い食べ物への欲求を持つように進化したと考えられている。人類の砂糖に対する愛着は非常に深く、世界中に独自の砂糖文化が見られる。そして日本もその例外ではない。

日本の砂糖文化を探る一番の方法は、長崎街道を辿ることだろう。228kmにわたって九州本島を横断するこの街道は、和菓子づくりと日本の砂糖文化の形成に不可欠の要素だったため、「シュガーロード」と呼ばれている。

日本と砂糖の関係は、奈良時代(710~794年)から始まった。初めは薬として使用されていた砂糖は、室町時代(1336~1573年)に和菓子の材料として用いられるようになった。南蛮貿易時代の初期、1543年にポルトガルが日本と初めて国交を結んだ時、砂糖はまだ珍しいものだった。江戸時代(1603~1868年)になると、砂糖はヨーロッパから長崎へと大量に輸入されるようになり、その多くは長崎街道を通じて江戸(東京)へと送られた。江戸及び街道沿いの街で砂糖の一部は、支払いや贈り物として各地方の民衆の手に渡ったため、道々で独自の砂糖文化が普及した。

シュガーロードの始点である長崎は、ポルトガル人が渡来する以前には、静かな漁師町だった。ヨーロッパからの影響は現在でも残っており、西欧風ながらも日本人らしいセンスが吹き込まれた建築様式はそれをよく示している。顕著な例として、印象的な赤レンガ造りの旧英国領事館や日本最古の教会ながらも美しい大浦天主堂などがある。

さらに街を探索すると、金色の文字と赤い提灯で飾られた大胆な色使いの中華街の入り口が目に入る。長崎には、1639年に本格的に開始された鎖国の前から、中国人コミュニティが栄えているが、鎖国時代には、中国とオランダの貿易商を除いて外国人の日本への入国は禁じられていた。活気に満ちたこの中華街は、タイムマシンで訪れたかのようだ。今なお残る赤と金のトンネルをくぐれば、かつての中国人居住地の名残が感じられ、美しい中国式の神社が建ち並んでいる。シュガーロードの最盛期には、砂糖を寄進した中国人貿易商によって、これらの神社に莫大な富が集まった。

路面電車で少し移動すると、シュガーロードの真の出発点、出島がある。 1636年に造られたこの人工島は、オランダ商館のいわば幽閉地帯として機能しており、鎖国時代において日本が西洋と接触を持った唯一の場所だった。輸入された砂糖は、ここで船からおろされ、検査の上、日本の各地へと発送された。貿易港の最端を象徴する島として造られた出島は、長崎観光の目玉と言えるだろう。美しい木造の建物を眺めながら歩けば(建物には入場・見学が可能で、多彩な展示品とともに当時の日常生活が再現されている)、鎖国時代の日本の生活ぶりが活き活きと伝わってくる。

その最盛期には、現在の金額にして2000万ドル相当量の砂糖が輸入され、シュガーロードを通じて輸送された結果、周辺地域に相当の量の砂糖がもたらされた。砂糖はさまざまな方法で大衆に普及した。例えば、荷役労働者には、砂糖をわざとこぼして懐に入れる者がいた。また、オランダ商館は砂糖を支払いに用いたり、贈り物として使ったりし、中華街の神社でのやり取りと似た方法で銀と砂糖を交換することもあった。このようにして、九州における砂糖の流行は盛り上がった。

長崎で最も古くからある商店街、中通りを探索すると、歴史の重みを感じさせる光沢のない黒色の伝統的な日本家屋が現れる。この建物は、1830年創業の和菓子専門店、岩永梅寿軒だ。梅寿軒の代名詞とも言えるカステラ(ポルトガルのスポンジケーキの日本版)は、しっとりとしていながらも柔らかい。長崎には注目すべき菓子がいくつかあるが、カステラはその代表だろう。その黄金の色合いと滑らかな甘みを味わえば、その理由は明らかだ。元々、カステラはパンに似た食感の食べ物だったが、シュガーロードを通じてもたらされた砂糖が長崎の人たちのレシピに加えられ、今日愛されている甘く上品な味わいが誕生した。

さらに北にある街、佐賀県小城は、世界有数の羊羹消費量を誇る。羊羹は中国で羊の肉のスープとして発祥し、日本では餡と寒天と砂糖で作られる。ゆるやかな緑の丘と古い神社に囲まれた通りに羊羹工場が並んでいる。小城風羊羹の元祖、村岡総本舗はそのひとつだ。村岡総本舗の特徴は、伝統的な手法を用いていることだが、その手法とは販売前に羊羹を切り分けるというものだ。この手法により、切りたてのみずみずしい味わいとカリッとした外側の食感という魅力的な組み合わせを楽しめる、水晶のような見た目の羊羹ができあがる。1899年に誕生した村岡総本舗の美味しい羊羹は、シュガーロードが繁栄した理由の一つとして評価できる。桜羊羹も是非食べてみるべき菓子だが、この桜羊羹には白餡が使われているため、綺麗な薄紅色になっている。

次の目的地、福岡県陣原は大阪以西で唯一、金平糖を製造する菓子会社が残る土地だ。陣原は、工場と沢山の産業機械に溢れており、砂糖のイメージとはかけ離れた街に見える。しかし、静かな街の一角に、頑固に金平糖を製造する入江製菓はある。大阪で創業した入江製菓は、1934年、この地に製造場所を移して大きな成功を収め、シュガーロードによる地元民の砂糖人気の盛り上がりに貢献した。入江製菓の看板商品、金平糖は、立体的な星形の形状が印象的なシンプルな砂糖菓子で、日本の職人が生み出した遊び心溢れる菓子だ。この形状を完成させるには、大きな回転鍋を熱しながら2週間回し続けるという大変な作業工程が必要となる。入江製菓は最近、風味付きの金平糖を販売し始めた。風味の種類には、緑茶、バジル、さらにはラーメン風味まである。これらのバリエーションは、それぞれ非常に良く考えられており、品質を損なうことなく、金平糖に新たなひらめきが加えられている。

長崎街道は、古い城下町の小倉で終わる。昔ながらの要素と現代の要素が融合している小倉の街並みを見て回るのはとても楽しい。壮麗な小倉城のすぐ隣には商業施設が溶け込み、また、敷石の道は舗装道と交差している。砂糖は小倉に到着すると、船に積まれ、下関海峡から江戸へと運ばれた。

228kmの道程において、シュガーロードが日本の文化等に与えた影響は極めて大きい。この街道が日本人に砂糖の味を伝え、九州、そしてのちには他の日本各地の人々が、その甘い味に夢中になった。さらに、シュガーロードを通じて砂糖が普及すると、さまざまな菓子の創作と成功、そして調理における砂糖の本来の使用法が味の革命をもたらした。長崎街道は、料理と砂糖の文化という消えることのない足跡をその道程に残したのだ。



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