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Highlighting JAPAN

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海外で活躍する日本人

太鼓の新境地

林田ひろゆき氏(仮訳)

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林田ひろゆき氏は幼い頃からプロのドラマーになることを夢見ていた。長崎出身の林田氏は中学の時、学校の机を叩いてリズムを刻み、キッスのドラマーであるピーター・クリスのドラムのソロを丸ごとやってのけてクラス中を驚愕させたことを覚えている。やがて学校の机からドラムセットへと乗り換えた彼は、高校、大学とロックやジャズのバンドと一緒に演奏していた。

彼は洋楽に夢中だったが、1985年、和太鼓のグループとして名高い「鼓童」の公演を見に行ったことが彼の転機となった。太鼓は祭りの時にだけ叩かれるものだと思っていた林田氏にとって、その太鼓の公演のすべてが未知のものだった。「鼓童」のメンバーは遠く新潟県の佐渡島で練習しているので、「正直なところ、彼らは普段は単なる漁師たちだと思っていた」と彼は認める。

しかし「鼓童」の演奏は彼の魂を揺さぶるものだった。ドラムセットの多彩な音と比べて、太鼓はシンプルで単調なものだと彼は思っていた。「カルチャーショックだった」と林田氏は回想する。日本文化の奥深さに打たれ、まるで太鼓はそれ自身が美しさと深さを持つモノクロ写真のような可能性を持っていることに気づかされた。

「鼓童」のコンサート会場にあった研修生募集の広告を見つけ、彼は応募した。一年後、「鼓童」のロンドン公演では聴衆のスタンディングオベーションを受けたが、そのような大きな反応は林田氏がいちドラマーだったならば考えられないことだった。彼はどんどん太鼓にのめり込んで行った。

がむしゃらな7年間と800を超える公演の後、林田氏は「鼓童」の過密なスケジュールから離れる時が来たと思った。それ以上に、彼は自分自身の太鼓の音楽を創り出したいと感じていた。彼は一旦音楽を離れ、数年間、東京の美術教授の下で金属彫刻やその他のデザイン関係の仕事の手伝いをしていた。

この充電期間の間に、有名な日本人フォークシンガーのイトウタキオ氏がコンサートに林田氏を招いてコラボレーションで演奏をしないかと声をかけてきた。最後の演奏かもしれないと思い、彼は一生懸命練習し、演奏は大成功を収めた。コンサートの主催者はさらにもう何曲か演奏してくれないかと頼んだ。「結局、ショー全体の半分くらいの曲を演奏した」と彼は話す。「とにかく楽しかった」。

これが林田氏にとってソロの太鼓奏者としてのデビューとなった。やがて彼は、肩の上に太鼓を担ぎながら演奏する「担ぎ桶太鼓」の文字通り先駆的担い手となり、自身の演奏グループ「ジパング」を立ち上げる。

以来、林田氏は32カ国のさまざまな舞台で演奏してきた。1998年のサッカー FIFAワールドカップ フランス大会の閉会式でも演奏した。また、北野武監督作品『座頭市』ではタップダンスシーンでの太鼓の演奏を担当し、コールドプレイとリアーナのコラボレーションによるミュージックビデオ『プリンセス オブ チャイナ』ではTaiko Center of Los Angelesのメンバーと共に出演し、太鼓ドラマーのリード役を務めた。

林田氏は、「ヨーロッパの聴衆は特に彼の音楽のリズムと独特な音を評価し、アジア諸国の聴衆はインドネシアのように大きな太鼓を使う歴史があるので、日本の太鼓もすぐに受け入れられるようだ」と語る。しかし多くの海外公演の中でもっとも印象的だった出来事はアフリカの子供たちの前で演奏したときだった。演奏後、彼らはじっと彼のことを見つめて微動だにしなかったのだ。拍手がないことにとまどっていると、後でその公演は子供たちにとって最初のコンサートで、拍手するということを知らなかったのだと聞かされた。

林田氏は太鼓の開発にも力を注いでいる。2003年、彼は世界的電子楽器メーカーとエレキかつぎ桶太鼓を開発、太鼓メーカーである浅野太鼓と共に彼が作った太鼓は2004年の「グッドデザイン賞」を獲得した。さらに有名なアメリカのドラムヘッドブランドRemoと開発した太鼓は、2011年から世界中で販売を開始している。太鼓には、その演奏技術、音、材質など、まだまだ潜在的な可能性が秘められていると彼は信じている。

「太鼓は単に音を出すだけのものではなく、視覚的なエンターテインメントでもあり、現在の太鼓のスタイルはその可能性の一部に過ぎない」と彼は話す。

林田氏は地球上のファンたちに愛されるリズムを演奏し続け、太鼓の魅力を世界へと伝えていく。

 



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