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Highlighting JAPAN

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海外で活躍する日本人

ダンス・ダンス・ダンス!(仮訳)

加治屋百合子さん

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クラシックバレエのバレリーナとは、空気でできた流れゆく存在に見え、蝶々のように動き回り、そのからだで言葉なき物語で表現する、小柄で繊細な女性たちのことだ。
彼女らの現実というのは、多くの場合物語とは全く違ったものである
彼女たちが小柄、というのは本当であるが、彼女たちは献身と鉄のような精神力に支えられているのだ。

加治屋百合子さんは、若干10才で日本を離れた。他の日本の子供が小学校に通い、未熟で、人生や世界に何が待ち受けているかなどまだ考えてもいない頃、彼女の家族は、リビングのテーブルに座り、長い時間をかけて話し合い、上海舞踊学校/中国の国立学校に挑戦することを決めたのだった。8年後、彼女はアメリカン・バレエ・シアター(ABT)スタジオカンパニーに参加することになった(これはニューヨークにある、有名なアグネス・デ=ミルやミハイル・バリシニコフが所属していたカンパニーと同じものである)。それから5年後の2007年、彼女はABTでただ一人の日本人のソリストとなったのだ。

彼女の粘り強さの源はなにかと考えるとき、疑いようのないものがある。彼女はたった10才の時、中国人に囲まれ、家族も周りにいない、そして中国語の一語も知らない中、新生活を寮ではじめたのだった。(中国語は3ヶ月で習得したという。)

中国国立学校の先生は、コースに参加する外国からきた子供達に重く責任 を感じることはないのだという。家族は子供のために学費を支払うが(これは外国の子供だけで、中国人の子供は奨学金が出る)、学校は自国の生徒を優先しているように感じたという。それが、百合子さんが放っておかれ、たびたび「クラスで一番出来が悪い子だ」と言われた理由である。コースの開始から一ヶ月経ち、彼女の母親が家に帰りたいか尋ねると百合子さんは、「嫌だ」と答えた。彼女は、一度始めたことは、諦めることなく、最後までやり遂げる必要があると感じていた。彼女自身の言葉を借りると、「私は10才でした。若かったし、なにも分かっていなかった。その時は、自分の目の当たりにしているものが恐ろしいとか、難しいものには見えなかったのです。」

けれども言葉の壁や文化の違いもあり、先生からよそ者扱いを受けているのではないかと疑心暗鬼になることもあり、必要とされていないように感じてしまうこともあった。だから彼女は、良いダンサーになるために努力し、同級生以上に練習に打ち込んだ。揺るぎないバレリーナの肉体がバリエーション(クラシック・ダンスにおけるバリエーションとは、創造的なパフォーマンスのより芸術的な側面のことである)へと導いていくにつれて、百合子さんは本当に人生でやりたいことをみつけ、タオ・リ・ベイ中国国立バレエ大会 (1997)で最優秀賞を、名古屋で開催された第三回国際バレエ大会(1999)ではファイナリスト、そして誉れ高いローザンヌ国際バレエコンクールでもローザンヌ賞を受賞。これによって彼女は、トロントでのナショナル・バレエへと上り詰めたのだった。

彼女は時々町中で声をかけられるようになったが、こうして気づいてくれる人がいることを光栄に思い、自身の業績を幸せに感じている。彼女は言う、「私はロック・スターではないからね!」

彼女は笑いながら、自分は語学が得意ではないと言う(彼女は日本語、英語、中国語、と上海地方の方言”しか”話せないそうだ)、ニューヨークのジムに行くと、大きくてマッチョな男性のとなりで彼女の小さなからだがおもりをあげていることが未だに可笑しいのだ、と付け加えた。

彼女はアメリカで活躍するうちに、日本人であるというを強く意識するようになり、母国に誇りを持つようになった。日本人としての誇りを持ちつつも、生まれ育った中国でも認められたいという。実力もあるうえ努力家でもある彼女の今後のますますの活躍に目が離せない!



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