Home > Highlighting JAPAN > Highlighting JAPAN 2013年2月号 > 冬の中で受け継がれる技術(仮訳)

Highlighting JAPAN

前へ次へ

特集冬を愉しむ

冬の中で受け継がれる技術(仮訳)

English

本州の東北、上信越地方、中部地方の山間の村々には冬の間、多くの雪が降る。そこに暮らす人々は、冬の雪や寒さを乗り越えるために、住まい、道具、衣服、食べ物など様々な分野で工夫を凝らした。そうした厳しい冬の気候の中から生まれた先人たちの知恵と技の結晶は、今も人々の暮らしとともに生き続けている。山田真記とジャパンジャーナルの澤地治が報告する。

合掌造りの知恵:白川郷

白川郷(岐阜県)の合掌造り集落は、日本でも有数な豪雪地帯にある。12月下旬から3月初旬の降雪期には、およそ2mにおよぶ積雪があり、車が通れる道路が整備される以前は雪で交通路が寸断され、「陸の孤島」と呼ばれていた。

およそ300年前、こうした厳しい気候風土と隔絶された環境の中で考え出されたのが合掌造り家屋だ。その特徴は、一目見てそれと分かる独特の屋根の形状にある。50度から60度ほど傾斜した大きな茅葺きの屋根は、白川郷集落の伝統を今に伝える象徴的な建築様式と言える。

「先人たちがこのような形の屋根を作ったのには、大きく2つの理由があります」と話すのは、自身が暮らす合掌造り家屋をそのまま利用した民俗館「和田家」の館長を務める和田正人氏だ。「一つは、屋根の傾斜をきつくすることで、雪が屋根の上に多く積もらないようにして、雪おろしの手間を軽減しようとしたこと。もう一点は、屋根を高く大きくすることによって、屋根裏に二層もしくは三層の広い空間を確保することです」。

白川郷では、蚕のエサとなる桑の葉が多くとれることから、江戸時代(1603〜1867年)中期から明治時代(1868〜1912年)の初めまで、盛んに養蚕業が行われた。1階を生活の場とし、広い屋根裏部屋は養蚕の作業場として利用していたのである。このほか合掌造り家屋では、床下を利用した鉄砲火薬の原料である焔硝作りも行われていた。これは農業ができない冬の時期の重要な産業の一つだった。

「合掌造り家屋は、1階部分が生活の場で、2階、3階が繭の製造工場、床下は焔硝の製造工場として利用できる非常に機能的な建築物だったのです」と和田氏は話す。

合掌造り家屋には、このほかにも建築上の数々の工夫がなされている。例えば、屋根組みには釘が1本も使われておらず、丈夫な縄で屋根を固定している。こうすることで屋根に柔軟性をもたせ、雪が積もったときや台風、地震などが起きたときに屋根を微妙に揺らすことで力を分散させ、家の耐久性を高めているのである。

また、合掌造り住居の1階の居間には、必ず囲炉裏が据えられている。もちろん囲炉裏の主用途は、食べ物を煮炊きしたり、暖をとることにあるのだが、囲炉裏から出る煙で建物を燻すことで、虫を寄せつけず建材を腐りにくくして、住居を丈夫にしているのである。煙が1階の居間から屋根裏部屋まで抜け出るように、2階、3階の床にさりげなく隙間が設けられている。このほかにも、屋根の材料を茅にすることで断熱性を高めたり、屋根裏の妻部分には十分な採光と風通しが得られるように白い障子窓を取り付けるといった工夫も取り入れられている。

白川郷に現存する合掌造り家屋は54棟。その中でも最も規模が大きな家屋が、「和田家」だ。かつて和田家は、名主や番所役人を務めるとともに、焔硝の製造と取り引きによって大きな富を築いた。現在は前述の通り民俗館として利用され、白川郷集落に来た人は必ず立ち寄るという観光スポットとなっている。

「昔は今と比べると車の行き来も少なく、私が子供の頃などは、雪だるまやかまくらを作ったり、そり滑りをしたりと、雪の中で思う存分遊んだものです」と和田氏は言う。「そうした楽しみを見つけることで、厳しい白川郷の冬を乗り越えることができたんです」

1995年にユネスコの世界遺産に登録されて以来、白川郷を訪れる観光客は増加し、外国人も含め、約130万人にまで達している。

「冬は観光客が一番少ない季節ですが、だからこそ、集落はしんと静まって、本当の白川郷らしさが感じられるのではないでしょうか」と和田氏は話している。


自然の恵みで編む:奥会津編み組細工

1月の或る日、福島県三島町の「生活工芸館」では、「冬のものづくり教室」が開催された。工芸館の周辺では1m以上の雪が積もり、気温は氷点下となったが、30歳代から70歳代まで40名程の人が集まり、この地方の伝統工芸である「奥会津編み組細工」作りに取り組んだ。

「今日は、ベテランだけでなく、新人さんも参加していたので、とても嬉しかったです」と馬場修子奥会津三島編組品振興協議会会長は言う。「私を含めてベテランは、普段は家で作っていますが、こうして他の人の作品作りを見ると、とても刺激を受けますね」

福島県三島町は、福島県の奥会津と呼ばれる地域に位置し、面積の約90%が森林を占める。冬には1〜2mの雪が積もる奥会津は、冬の仕事として、草木を使った編み細工作りが古くから盛んで、2500年前の遺跡からも、籠などの編み細工が出土している。

「山で集めた山菜を入れる籠、あるいは野菜を水で洗う時に入れる笊など、自分の生活で必要なものを必要なだけ、夏や秋に近くの山林で採れる草木を使って作っていたのです」と馬場さんは言う。「村の人たちは昔、各家庭で農閑期である冬に囲炉裏を囲みながら、家族みんなで教えあって作っていました」

奥会津編み組細工は、材料によって大きく3種類に分けられる。まず、山ブドウの蔓の皮を使った細工だ。皮は非常に丈夫なので、重い物や刃物を入れる籠が多い。使い込むほどに濃い茶色になり、独特のツヤが出るのが特徴だ。マタタビの蔓の皮を剥ぎ、その幹の部分を使った細工は、弾力があり、水はけが良いので、主に笊として作られる。製作の最終工程で、冬の外気にさらす「寒晒し」をすることで、製品が漂白され、強度も増す。そして、ヒロロと呼ばれる多年草の草を使った細工は、ヒロロの縄を縦糸に、モワダ(シナノキという落葉広葉樹の樹皮)などを緯糸にして編まれる。レース編みのような仕上がりで、綿で作られたような柔らかさがあり、手提げバッグや小物入れになる。

「だいたい1日5時間ぐらいは、夢中になって作っています」と馬場さんは言う。「東京に住む孫にも、私の家に来た時に、作り方を教えています。彼らは自分で作ったものを学校に持って行って、自慢していますよ」

日本にはかつて、こうした自然素材の編み細工が各地で作られていたが、工業製品が広まるとともに、次第に少なくなっていった。三島町で、そうした編み細工が現在まで受け継がれている大きな理由の一つは、1980年代初頭から町ぐるみで、伝統的な編み細工を守り、後継者を育てようという運動を始めたことだ。1986年に完成した生活工芸館を拠点に、現代風にデザインした編み細工の製作、町民への編み細工教室の開催などの取り組みが行われ、次第に奥会津編み組細工は全国的に知られるようになっていく。2000年頃になると、奥会津編み組細工を買いたいという人が増えたため、作り手の人々が奥会津三島編組品振興協議会を組織し、作品を売ることを始めた。現在、売れた値段の8割が製作者の手元に入る仕組みになっている。70歳代を中心に100名程が編み細工を作っており、会社を退職してから作り始める人も少なくない。注文製作ではなく、それぞれの人が作りたい物を作っている。

ここ数年、奥会津編み組細工は、全国的に人気を博している。自然素材を使った手作りの編み細工は、年間でわずか600〜800点と限られており、作品は基本的に、生活工芸館でしか購入できない。しかし、三島町で年3回行われるイベントでは、奥会津や全国の編み細工を展示・販売し、来場者は年々増加している。昨年の初夏に開催されたイベントには、人口約1900名の三島町に、これまでの最高となる約25,000名が2日間で来場した。「自分の作品が売れると嬉しいですね。自分が認められたという喜びを得られるのです」と馬場さんは言う。「編み細工を通じて、三島町の素晴らしさを多くの人に知ってもらいたいです」


雪の贈り物:小千谷縮・越後上布

「雪は縮の親といふべし」

江戸時代後期の越後(現在の新潟県)の、雪にまつわる自然、生活、産業などを紹介した「北越雪譜」には、こう記されている。ここで言う「縮」とは、「越後縮」のことだ。越後縮は現在、その製造される地域で「小千谷縮」と「越後上布」に分けられている。小千谷縮は、新潟県小千谷市で製造され、「しぼ」と呼ばれる凹凸がある麻織物で、越後上布は、新潟県南魚沼市で製造される平織りの麻織物だ。小千谷縮と越後上布は、非常に薄く、軽く、夏の蒸し暑い時期でも、さらりとした肌触りであるため、夏用の高級着物の素材として使われてきた。

小千谷縮・越後上布の歴史は、1200年以上前に遡ると言われている。朝廷や将軍への献上品として贈られたという記録もあり、古くからその品質は高い評価を得ていた。江戸時代には、幕府の式服にも採用され、年間20万反(1反は幅37cm、長さ12.5m。1反で着物一着が作れる)が生産された。

その伝統的な製作技術は現在まで受け継がれ、1955年には日本で初めての重要無形文化財として指定、2009年にはユネスコの無形文化遺産に登録された。

「この地域は雪のため、冬は外で農業をすることが出来ませんでした。冬に各家庭で行われる小千谷縮・越後上布の製作が、農閑期の貴重な現金収入となったのです」と小河正義小千谷縮布・越後上布技術保存協会会長は言う。「また、乾燥していると麻の糸は簡単に切れてしまいます。この地域が雪に囲まれ、適度な湿気があるということも、その製作に適していたのです」

小千谷縮・越後上布は、糸作りから製品完成まで30以上の工程があり、職人による分業体制で製作される。全て手作業のため、時間と根気が必要で、1反作るのに約5ヶ月がかかる。主な作業としては、「苧績(おう)み」、「絣(かすり)作り」、「製織」、「湯もみ・足ぶみ」、「雪晒し」だ。この中で、雪晒しは最終工程の一つで、2月〜3月の晴れた日に、雪の上に織り上がった布をさらす作業だ。真っ白な雪の上に、様々な柄の布が美しく並べる様子は、この地方の長い冬が終わり、春を告げる風物詩となっている。

「布を雪にさらすことで、布がしなやかになるだけではなく、色が白くなるのです。太陽熱で雪が溶け、水分が布目を通り蒸発する時に発生するオゾンが、布を漂白するためと言われています」と小河氏は言う。「いつ、どの位の間、雪にさらすのかは、雪晒しを専門とする職人の勘によります」

小千谷縮・越後上布の製作は女性が主に担っており、その技術は、母親が娘に、あるいは姑が嫁に教えることで、代々受け継がれてきた。しかし、第二次世界大戦後、洋服の普及により、着物の需要が低下し、その製作技術を持つ職人が大幅に減少した。こうしたことから、伝統技術を守るため、小千谷縮布・越後上布技術保存協会が設立、国や自治体の支援を受けながら、1973年から後継者の育成を行っている。毎年、後継者育成のための講習会が開催され、受講者は「苧績み」、「絣作り」、「織り」のコースに分かれ、冬の間、「苧績み」・「絣作り」は20日間、「織り」は100日間、3〜5年間にわたって技術を習得する。受講が終わると、地元の織物メーカーへの就職が可能だ。「織り」は、20〜30歳代の女性が中心で、新潟県外からの参加者が6割を占める。現在、小千谷縮・越後上布の職人は約70名であるが、「織り」を担当する職人のほとんどは、この講習会の卒業生だ。

「受講生は、非常に熱心な人ばかりなので、途中で辞める人はほとんどいません」と小河氏は言う。「こうした人々を大事に育て、技術を次の世代にバトンタッチしていきたいです」


北国の発酵食品(仮訳)

冬の寒さに備えた先人たちの知恵の一つに発酵食品が挙げられる。福島県出身で、日本のみならず世界中の発酵食品を研究している小泉武夫東京農業大学名誉教授に、ジャパンジャーナルの澤地治が聞く。

──小泉先生は、世界中の発酵食品を食べ、研究をしていますが、日本の発酵食品の特徴は何でしょうか。

小泉武夫氏:日本には発酵食品の種類が非常に多いということが大きな特徴です。味噌、醤油、日本酒、納豆、鰹節などは日本を代表する発酵食品です。ヨーロッパにもヨーグルト、チーズ、アジアには中国の白酒、ベトナムのニョク・マム、タイのナン・プラーなどの発酵食品はありますが、一つの国で、日本ほど、発酵食品の種類が多いところはありません。日本で発酵食品が多い理由は、日本は湿度が高く、食材を発酵させる発酵微生物が繁殖しやすいからです。また、日本では魚、野菜、穀物など食材も豊富なので、発酵させて作る食品の種類も多くなります。

発酵させることで、食品を長期間保存できるようになります。冷蔵庫がなかった時代、発酵は食品を保存するために必要だったのです。日本人は魚を数多く食べるので、魚の発酵食品も多いです。例えば、イカの身の切り身、内臓、塩を混ぜて発酵させて作る塩辛、魚をご飯とともに漬けて、発酵させて作るナレズシなどはその代表的な例です。

──中でも、東北地方は発酵食品の種類が多い地域ですが、それは何故でしょうか。

東北地方で発酵食品の種類が多い理由の一つは、冬の厳しい気候にあります。冬の間、寒さや雪で農作物が採取できないため、冬の食料として、保存食である発酵食品が作られたのです。特に、漬物は種類が豊富です。大根、キュウリ、白菜、ナスなどの野菜を味噌、醤油、麹などの「漬け床」に漬けて漬物を作りました。野菜を材料にした漬物は、発酵微生物によって作られるビタミン類が多く含まれるだけではなく、食物繊維も豊富なので、健康にも非常に良いのです。また、東北では古くから農業が盛んでした。夏の農作業は汗をかき、塩分を失います。漬物には塩分も多く含まれていますので、漬物を食べれば塩分も補給できるのです。東北の人たちが生きていくためには、発酵食品が必要だったのです。

──他に、東北地方でよく食べられる発酵食品は何でしょうか。

大豆を発酵させて作る納豆です。納豆の消費量が日本で1番多いのは福島県、2番目は秋田県、4番目が山形県といずれも東北地方です。今は東北でも、他の地域と同様に、ご飯に納豆をかけて食べるのが一般的ですが、明治時代(1868-1912)以前は、納豆を味噌汁に入れて食べていました。東北では奈良時代(710-794)から、水田で米を作り、あぜ道で大豆を作っていました。東北では、納豆だけではなく、豆腐も味噌汁に入れました。豆腐も味噌も大豆から作られます。明治時代以前、東北地方の人を含め日本人は肉をあまり食べませんでしたが、大豆には肉と同じぐらい、タンパク質が含まれています。つまり、肉を食べなくても味噌汁や納豆、豆腐から非常に豊富なタンパク質を得ることが出来ました。だから、東北の人も寒い冬を乗り越えるスタミナを身につけることができたのです。

──世界中の方々に、ぜひ試してもらいたい東北の発酵食品をご紹介いただけますか。

多くの発酵食品は独特の臭いと味を持っています。普段食べ慣れていない外国の方には食べにくいものもあるかもしれません。ただ、秋田県の「いぶりがっこ」は、どなたでも、美味しく食べられる発酵食品だと思います。いぶりがっこは、ぬか漬けにした大根を、木で燻したものです。世界には、燻した食品がたくさんあります。コーヒー、ウィスキー、ハムなどがその代表例です。しかし、発酵させた漬物を燻すのは世界でもいぶりがっこだけです。海外の燻した食品と同じように、いぶりがっこにも燻した煙のにおいがします。ですから、外国の方にも、いぶりがっこは抵抗無く食べていただけると思います。

東北地方をはじめ、日本には様々な発酵食品があります。2015年5月から10月まで「Feeding the Planet , Energy for Life」をテーマにしたミラノ国際博覧会が開催されます。この万博で私は、日本の発酵食品を紹介する手助けをすることになりました。是非、この機会に日本の発酵食品の素晴らしさを、世界の人々に味わって頂きたいものです。

前へ次へ