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Highlighting JAPAN

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染めものの魅力(仮訳)

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東京の株式会社二葉は、昔と同じように伝統的なやり方で高級染めものの生産を続けている。ギャビン・ブレアが工房を訪ね、四代目社長の小林 元文 氏に話を伺った。

着物は現代においても日本の象徴であり、着物に用いられる布地の染色は製作過程において欠かすことのできない過程である。着物屋の素材の注文先である染物屋は、家業が代々引き継がれている家族経営企業であることが多い。かつては染物屋が川沿いに集まり、その川の水で作業をしていたという東京落合。二葉は今でもこの地に店を構えている。

東京の秋葉原と言えば、今では電子機器やオタク文化で世界的に有名だが、それよりもずっと昔、この地は染物屋が集中していた。しかし、1世紀以上も前に染物屋はさらに川の上流の落合へと移り住んだ。二葉は以前と変わらず川岸にのれんを掲げているが、1955年を境に川の水を使わなくなり、現在は染色に大型の貯水槽を使用している。

「この地域が一番栄えていた頃は3万軒の染物屋と関連業者がありましたが、今では東京全体で10軒もありません。落合周辺には80人程の職人がいるのですが、その多くは高齢化していて自宅で働いています」と説明するのは、二葉の社長である小林 元文 氏。「しかし、彼らの技術を守るために何もしなければ、技術は老いた職人と共に絶えてしまうでしょう。」

東京における着物そして着物に用いられる黒っぽい色彩の物語、それは19世紀半ばに首都となる前のこの都市の歴史と結び付いている。

「江戸(東京の旧称)が急速に発展し始めた時、企業も成長し始め、全国の至るところから移り住んでくる人が増加しました。商人の身分は武士より低かったのですが、景気が良くなるにつれて、商人は上級武士よりもかなり豊かになりました。商人に試練を与え、また武士の名誉を守るため、贅沢品を表に見せることは禁じられたのです」と小林 氏は言う。

「江戸の人々は反抗したり暴動を起こしたりする代わりに、この掟を楽しむ方法を見つけました。着物の見えない部分に非常にカラフルなデザインを用いて、許可されている地味な色使いのバリエーションを数多く生み出しました。それは四十八茶百鼠と呼ばれ、現代まで存続している呼び名です。」

これが、着物地を染める様式である江戸小紋や東京染小紋の起源となった。今も東京では保守的な色使いが広く好まれる傾向にその名残をとどめる。

「大阪や京都では贅沢が禁止されることはなく、鮮やかな色を着る人がたくさんいました。日本の中南部にある関西では今でも派手な服を好む傾向が見られます」と小林 氏は示唆する。「実を言うと、当社のデザインや布地は大阪ではあまり売れません。もっと南の九州に行くと売れるようになっていきます。」

とは言え、 非常に由緒ある世界であっても、すべてがこれまで通りに行くとは限らない。小林 氏が言うには、伝統的な着物のデザインは、昔よりもずっとバリエーションが豊かになっているらしい。

「着物の柄の決まりを守る人は少なくなり、個性を表現したいと考える人がたくさんいます。」

「近年、結婚式やフォーマルな式だけでなく、食事や観劇などもっとカジュアルな場に着物を着ていく人が出てきています」と小林 氏は言う。さらに、二葉の布地は、現在ヨーロッパを中心に20カ国の顧客に親しまれている。

好みやデザインが変わっても、1,200通りのカラーバリエーションから色を選び、1世紀以上もの間ほとんど変わっていない伝統的な方法で布を乾かし、二葉は布を染め続ける。

川沿いの二葉の工房には、カフェ、ミニ博物館のほかに教室があり、染めもの体験ができるようになっている。

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