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Highlighting JAPAN

 

博聞の作家、宮沢賢治の故郷を訪ねて

東京駅から東北新幹線に乗って約3時間で、花巻市の玄関口の一つである新花巻駅に到着する。花巻市は宮沢賢治生誕の地であり、ゆかりの場所も多く残る。そんな賢治の痕跡を訪ね、彼の人生を探った。

『銀河鉄道の夜』『注文の多い料理店』『セロ弾きのゴーシュ』『よだかの星』など、幾つもの作品名を挙げることができる作家宮沢賢治。日本では小学校の授業で彼の作品に触れることから、大多数の日本人が知っている。ただ存命中は無名で、創作活動は「本職」と並行して行われていた。賢治は25歳(1921年)から6年間、県立花巻農学校(現・岩手県立花巻農業高等学校)の教壇に立ち、その後、農業技術や農業芸術論などを講義するため、私塾・羅須地人協会を発足した。37歳で亡くなるまで、肥料設計や農業指導など農民を支える活動を続けた。そんな彼を知るべく『宮沢賢治記念館』の主査、宮澤明裕さんに話を聞いた。

「賢治は非常に多作で、童話を100、詩を900~1000作残しています。ほかにも短歌、戯曲、作詞などもあり、短歌に至っては膨大すぎてあまり知られていないものもあります」これらの作品群を支えたのは彼の膨大な知識量である。様々な分野に精通し、また世界の最新の情報に触れていた痕跡もあると言う。「『銀河鉄道の夜』には、タイタニックで亡くなった人が乗車してくるシーンがあります。辺境の地に暮らしていましたが、とてつもなく感度の良いアンテナを持っていたんでしょう」と話す。同館では彼の世界観や宇宙観を「科学」「芸術」「宇宙」「宗教」「農」の5つのジャンルに分けて展開しているが、「これらに収まりきらない広さと深さがある」と、彼の尽きない興味に宮澤さんも感心する。

賢治は世界中から情報を引き寄せると咀嚼し、構築し、教師時代は学生に、農業指導者時代は農民に対して、花巻から世界を見せた。しかし、何に対してもスケールが大きすぎたようである。ネットどころか、電話も普及していなかった時代に、世界の知の先端を見せられたら人々がどう感じるか、想像に難くない。こうしたスケール感こそが、宮沢作品の面白さのベースだが、当時の賢治の世界観を理解できた人は多くなかったろう。「賢治は花巻から世界に“何かを”発信したかったのかもしれません」と宮澤さんは想像するが、いまやその“何か”を知ることはできない。

そしてもう一つの支えが仏教への帰依である。
「何年経っても作品が古くならないことは、仏教が説く『普遍』がベースにあるからだと思います。20か国以上で翻訳されていますが、それを可能にしている理由もまた『普遍』ではないでしょうか」と宮澤さんは語る。

膨大な作品を残した賢治。そのほとんどが書きなぐられたような状態だったが、彼の死後、それらを整理し、分類し、保存したのが弟の宮澤清六である。そして彼の孫に当たるのが、今回話を聞いた明裕さんである。
「祖父が大事にしていたものを僕が引き継ぎ、今は花巻の人々も大切にしてくれています。また没後50年目に記念館ができましたが、今も年間10万人もの人が日本各地、また世界からも宮沢賢治に会いに来てくれます」

花巻の街には『イギリス海岸』や『雨ニモマケズ詩碑(羅須地人協会跡地)』、『宮沢賢治先生の家』など、あちらこちらに賢治がいた痕跡があり、人々からは賢治への敬意を感じることができる。この街に降り立ったら、当時の賢治の気持ちになって景色を見てみたい。それこそ、花巻を訪れた者だけに許された愉しみなのだ。