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Highlighting JAPAN

 

明治のイノベーション、八幡製鐵所

2015年に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として、8県11市にまたがる23資産が世界文化遺産に登録された。その一つが北九州市・中間市にある「官営八幡製鐵所」である。その足跡と現在の姿を探る。

幕末から明治後期にかけて日本の製鉄・製鋼、造船、石炭産業は大きく飛躍した。その道のりは日本初の反射炉が築かれた佐賀から、鹿児島、萩、韮山、水戸へと広がり、初の木炭高炉が建設された釜石を経て、官営八幡製鐵所での高炉建設に至る。明治に入り鉄道敷設が拡大し、諸工業も発展するなど鉄鋼の需要が急増する中、官営製鉄所設立を議会で決定し誕生したのが、官営八幡製鐵所である。

筑豊炭田に近く洞海湾に面した福岡県遠賀郡八幡村が選ばれ、初代技監の大島道太郎は設備発注等のため欧米を視察、ドイツのグーテホフヌンクスヒュッテ社と契約を結ぶ。高炉は日産160トン、生産した銑鉄を製品化する工場も備えた銑鋼一貫製鉄所として計画され建設が開始。3年後に第一高炉が完成、翌年に火入れが行われ、1901年(明治34年)に操業が始まった。
しかし資金不足や高炉構造の問題、操業技術の未熟さなどから一年半後には第一高炉は操業休止に。技術指導で来日したドイツ人技師たちの帰国後、残された日本人だけで改善を試みるも2度目の火入れも失敗となった。

そこで、国の製鉄事業調査委員会の中心人物で、釜石の高炉を立て直した野呂景義博士を起用。博士は綿密な原因究明をもとに高炉の改造などを行い、3度目の火入れで操業をついに安定させた。翌年第二高炉が完成、さらに第三高炉を日本人の手で建設する。初の国産となった第三高炉は、1909年の操業後すぐに安定、翌年官営八幡製鐡所は10年目にして初の黒字を達成した。

新日鐵住金(株)八幡製鐵所には当時の一部設備が残っており、稼働中の設備もある。1900年に完成した「修繕工場」は現存する日本最古の鉄骨造りの建築物であり、3回の増築を経た現役の稼働設備である。「遠賀川水源地ポンプ室」は製鉄所から約11キロの遠賀川東岸にあり八幡製鐵所の鉄鋼生産に必要な工業用水の大半を供給している。現在、動力は蒸気から電気に変わりポンプも取り換えられたが、赤煉瓦造りの外壁や屋根はかつての姿をとどめている。そのほか、「旧本事務所」は赤煉瓦の洋風建築でドーム型の屋根を持つ美しい建物で1922年まで本事務所として使用されていた。「旧鍛治工場」も修繕工場と同年に完成、拡張・移築を経て現在は史料室である。

当時の鋼材で造られた代表的な建造物が、国会議事堂である。東京まで船積みで運ばれ、使用された鋼材は9500トン、組立工事が完成したのは1927年、議事堂完成はさらに後の1936年の事である。

官営八幡製鐵所には、教育機関や研究所が整備されていた。事業者自らが研究を行うことは当時国際的にも珍しかったという。不断の努力と視野を広げて前へと進む姿勢が技術の確立へとつながったと言えよう。八幡製鐵所は、日本を技術大国へと押し上げた象徴的な存在であり、現在ここに携わる人々は、先人が積み重ねた歴史と功績への誇りを共有する。近年はアジアへの輸出拠点としての役割を強化しながら、八幡製鐵所はものづくりへの価値観と競争力を磨き続け、過去と同様に、未来を見つめている。