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Highlighting JAPAN

木曽路はすべて山の中

長野県の木曽地域では、自然環境を保全しながら、職人が木工品作りの技を磨いている。

森林面積が約9割を占める長野県南西部の木曽地域は、長年、質の高い木の産地として知られている。特に檜は三重県の伊勢神宮など、全国各地の歴史有る神社や寺院の建築材料として用いられてきた。

「木曽檜は、気候や地形など様々な影響で、非常にゆっくりと育つため、年輪幅が狭いです」と南木曽町教育委員会の鈴木義幸氏は言う。「そのため、反りや割れも少なく、木目も美しいです」

木曽の森林は江戸時代(1603-1867)初期に危機に直面したことがある。この時代、15世紀中頃からの戦国時代が終わり、新たな町作りが全国各地で行われるようになっていた。神社、寺院、城郭などの建築に使う木材の需要が急増した結果、全国的な森林乱伐が進んだ。木曽の木材も各地の城の建設に使われ、深刻な森林資源の枯渇に陥った。

こうしたことから、木曽を治めていた尾張藩(現在の愛知県と長野県の一部)は、18世紀初頭に檜など5種類の木について、許可無く切った者は死罪という厳しい伐採禁止令を出した。その一方で、尾張藩は領民に対して、藩が製材し給付した材木や、伐採が禁止された木以外を用いた木工品作りを奨励した。例えば、「南木曽ろくろ細工」である。「南木曽ろくろ細工」は、ケヤキなど、木目の美しい広葉樹から製材された厚い板や丸太を、ろくろを回転させながら、カンナで挽いて削り出し、皿、椀、盆などの日常用品を作るものである。

また、「お六櫛」と呼ばれる櫛も木曽の特産品となった。「お六櫛」の「お六」は「お六」という女性の名前から由来するという伝説がある。頭痛に悩まされていたお六が、御嶽山を訪れ、お願いをすると、「ミネバリ」の木で櫛を作って髪をすくようにというお告げを受けた。さっそく櫛を作り、髪をすくと、頭痛が治ったので、このご利益を頭痛で悩む人のために分け与えようと櫛を売り出し、世に広まったというものだ。

「御嶽山は古くから、山岳信仰の山として人々から崇拝されていました」と鈴木氏は言う。「江戸時代には木曽に中山道が整備され、さらに多くの人が御嶽山を訪れるようになりました。そうした人々を通じ、木曽の木工品が日本に広がっていったのです」

江戸時代に、江戸と京都を結ぶ街道の一つとして整備された中山道は、木曽を通るので木曽路とも呼ばれた。木曽には中山道に沿って11の宿場町が発達し、旅行者のための宿泊施設、工芸品の生産・販売の拠点が集まった。その中でも、奈良井宿は南北約1kmにわたって1000軒以上の家屋が並ぶほど賑わった。また、妻籠宿は、南北約250mと11の宿場町で最も小さかったが、30を超える休息・宿泊施設があった。妻籠宿の近くには「南木曽ろくろ細工」の職人の集落があり、現在に至るまで、その技術が受け継がれている。なお、妻籠宿は島崎藤村(1872-1942)の執筆した日本近代文学史上に残る名作「夜明け前」の小説の舞台となっており、「木曽路はすべて山の中である」の書き出しで有名である。

「現在でも、木々の中を通る中山道の跡を歩くことができます。また、奈良井宿や妻籠宿には、江戸時代の面影を残す古い町並みが残されています。観光客の方々には、江戸時代に侍や旅人が歩いていた雰囲気の中を歩くことができると喜んで頂いています」と鈴木氏は言う。「これからも、そうした町並みや木工品の伝統を守るとともに、その良さを国内外に広げていきたいです」