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Highlighting JAPAN

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なぜここに外国人

時に運命は甘く(仮訳)

ビル・リオングレロー氏はグアムに住む救急隊員で、義理の父親が日本の四国にある家業を彼と妻に継いで欲しいと言うまでは、スイーツを作ることに対する知識など皆無だった。

清光堂ののれん(日本式の店舗や料理屋の入り口にかかるカーテン)は、店の一番人気のひとつ、大福にちなんでフクロウの絵柄がたくさん描かれていている。どちらの言葉にも幸運を意味する「ふく」という言葉が入っているからだ。

清光堂の小さな店の中やショーケースの内側には、おいしそうなお菓子が並ぶ。あるケースではマンゴー・アイスと凍ったフルーツの粒が宝石のように輝いている。フルーツのひとつは、この地域のお菓子やスイーツに極めて頻繁に使われている小粒なみかん(タンジャリンのような柑橘類)だ。砂糖と卵の豊かな香りが店の奥にあるお菓子が作られている部屋から漂って来る。

清光堂は西日本の四国にある愛媛県今治市の海岸から数百メートル入ったところにある。ビル・リオングレロー氏は自分が日本に住むことになるとは夢にも思わなかった。ましてやこの場所でケーキや和菓子を作ることになろうとは。彼と彼の家族は、彼が救急隊員として働くグアムで幸せに暮らしていた。彼の妻、益田智恵さんは学校の教員だった。彼らの子供たち、寛恵さんと寛規さんは小学校に通い、リオングレロー氏がわが町と呼ぶ美しいミクロネシアの島で家族みんな仲良くやっていた。

そこに日本から突然の要請が入った。智恵さんの父親が病気になり、娘とその家族に家業を継いで欲しいというのだ。大きな要請だったが、2002年、「私たちはグアムにおけるすべてを捨てて日本で家業を手伝うことにした」とリオングレロー氏は回想する。彼と家族はお菓子の商売と50年以上続く店の経営を勉強するため、愛媛に移り住んだ。

リオングレロー氏は、智恵さんの父親であり、店のオーナー、そして親方である益田光俊さんに就いて修行を始めた。その道は簡単ではなかった。リオングレロー氏は日本語を話せなかったため、お菓子の作り方を理解するにも、焼き方の練習をするにも、商売のやり方を学ぶにも、常に彼の妻の助けが必要だったからだ。義理の父親に就いて3年修行してようやく光俊さんは彼に店のすべてを任せたいと言った。「でも私はまだまったく自信がなかった」とリオングレロー氏は言う。しかし、意を決して飛び込む時は来た。

勉強しなければならないことはお菓子の焼き方だけでなく、日本式のスイーツや日本の文化についても山ほどあった。例えば、リオングレロー氏は白餡(多くの和菓子の中身となる甘い白豆のペースト)を食べたことがなかった。しかし、彼はすぐにその意味を理解して、伝統的な人気の味にひと工夫加えた新しい味を妻と共に作り出すようになった。

彼らが生み出した人気の味のひとつは「一福百果まるごとみかん大福」だ。名は体を表す、と言ったところだろうか。小粒の甘酸っぱいみかんが白餡で包まれ、さらにそれがお餅(和菓子には重要な弾力のあるお米のペースト)でくるまれている。

「このみかんは香りも甘味も酸味もとても強い」とリオングレロー氏は言う。「みかん大福について言えば、白餡はすでに甘いので、みかんの味を引き出すには酸味が必要なんです」。山の風を受けて自然のままに育つこのみかんは地域の誇りだ。白餡と餅も地元のものを使う。清光堂は週5日、1日に800個から1000個ものこのお菓子を作る。

その他のおいしいお菓子には、地元産のレモン果汁とレモンリキュールを利用したレモンケーキや、みかんカステラなどがある。みかんを与えて育ったニワトリが産む、白身に比べて黄身が大きい卵「みかん卵」を使った、パウンドケーキのようなお菓子で、「みかん卵」の薫り高い風味がお菓子の要となる。

お店の経営は今や家族ぐるみで行われる。智恵さんは清光堂のオーナーであり、経営を見ながら全国のデパートなどでのイベント等もこなす。彼女の母親であるシノブさんは店の客に応対し、レジも担当する。息子の寛規さんは現在製菓学校に通いながら、清光堂三代目になるべく修行中だ。娘の寛恵さんは他の会社に就職しているがレジの手伝いもする。名誉親方である光俊さんは今でも時折店に顔を出している。

在日13年目のリオングレロー氏は、日本でやっていきたいと思っている人にアドバイスがある。「日本に来たら自分の考え方は根本的に変えられる」と彼は言う。「考え方を変え、やり方を変え、あとは流れにまかせりゃいいのさ」と。



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