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Highlighting JAPAN

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連載 ご当地グルメの旅

昆布ロード(仮訳)

日本列島の西岸に沿って北海道から下ってきた船団が、食用の昆布をはじめとした数々の品を中継地の富山へと運んだ。その船団が通った海路は昆布ロードと呼ばれるようになり、富山の料理に豊かな味わいをもたらした。


日本列島に面した海を北前船 (北前とは日本海の意といわれる) が群れをなして行き来していた時代、食用の昆布が北海道から大量に運ばれ、その地域における食文化の形成に多大な影響をもたらした。それから300年あまりが経過した今も、この遺産は日本に根強く残り続けている。北方から昆布を輸送するために使われた海路は、昆布ロードとして知られている。

昆布ロードは日本海側を通って大阪や九州方面へと続く西廻りと、太平洋側を通って江戸(現在の東京)へと続く東廻りがあった。昆布ロードの主要経由地であった富山県は日本海側に位置し、国内のどの県と比較しても、一人当たりの昆布消費量が3倍以上になる。昆布は、東日本の至る所で使われている鰹節 (鰹を乾燥させ削ったもの) 以上にだし汁によく使われる原料でもある。

様々な種類の昆布が、夏の時期に北海道の浅瀬で収穫される。海面のわずか下でゆらめくこの緑色をした長い褐藻の機が熟すと (繁殖の約2年後)、 屈強な漁師たちが先の分かれた棹を駆使してギリシア神話のトリトンのように海底を探り、その棹を回転させながら海中に突き刺して、海が生んだこの宝物を引きずり上げる。そこから昆布は、何世紀も前から変わらないやり方で海岸に広げて日干しされ、南方へと輸送される。

昆布は、だし汁からお茶、昆布締め (昆布を刺身と一緒に重ねたもの) まで、様々な調理に使われる。昆布締めを専門に製造し、国内に販売している会社「かねみつ」に勤務する牧野俊郎氏は、昆布と刺身がある種の相乗効果を生み出していると説明する。昆布の塩気が刺身に浸透して深い旨味を作り出し、魚の水分が昆布の風味をより豊かにする。牧野氏は、昆布は旨味のほかに甘みと塩気も持っていると語る。これらすべてが魚に馴染み、2つの素材だけを使った料理がそれ以上の豊かさを持ったものとなる。牧野氏は、昆布締めが有するビタミンと健康上の利点を訴える。「昆布と刺身だけ食べれば、それで十分です。他には何もいらないのです」。

このご馳走をレストランで味わってみたい人は、富山駅からほど近い場所で賞味することができる。昆布締めなど富山の郷土料理に特化したレストラン「風の北前や」のオーナー・宇治 伸一郎氏は、「北海道と富山の間には強い結びつきがある」と語る。彼の語る結びつきは、北海道産の昆布と地元の海産物を組み合わせた料理と、その店名にも明白に現れている。彼の店では季節の海産物を使った昆布締めを7から10種類提供しており、富山の味覚を楽しみたいと思って県外から訪れる観光客たちに特に好まれている。刺身を昆布と一緒に重ねることにより、魚の甘みが引き出され、風味が深まるため、生臭く感じることはない。その他の地元の名産品としてはホタテやサケが挙げられ、自家製焼酎や北海道産の昆布焼酎がそれらの料理と一緒に味わわれている。

黒部市の「四十物昆布」は、だし汁やタレなどに使われる調理用の昆布に特化している。何種類も昆布が取り揃えられている中、同店で最も売れているのが、北海道の北東部に位置する羅臼町付近で収穫される羅臼昆布だ。マイルドで穏やかな特質が評価されている羅臼昆布は、世界で最も人気のある昆布だと言えるかもしれない。そして、昆布を欠くことのできない日本料理以外にも、昆布は国際的に重宝されている。四十物昆布の代表取締役・四十物 直之氏は、毎月60キロもの昆布をデンマークにあるレストラン「ノーマ」に送っている。このレストランは、一度のみならず世界最高のレストランとして選ばれている有名店だ。「昆布=旨味」だと四十物氏は語る。そして世界の食通たちは、優れた料理にとって旨味がきわめて重大な要素であることを知っている。

だし用の昆布 (四十物氏は、より旨味成分を引き出すために昆布の端に切れ目を入れることを勧めている) の他、四十物昆布ではとろろ昆布も製造している。薄いガーゼのように繊細にスライスされたとろろ昆布は、富山では通常の海苔の代わりにおにぎりに巻いて食べることが多い。四十物昆布の昆布茶は塩気があり、口に含むと香りが広がるだし汁のような一品だ。お茶の底には数片の昆布のかけらが漂う。「それを食べることもできるんですよ」と四十物氏は話す。齧ってみると、塩気とツルツルとした食感とともに、青々とした味わいが感じられる。

海運の歴史に興味のある人は、明治時代に船問屋として一大勢力を誇った森家が所有する、約140年にわたって大切に保管されている邸宅を訪れるとよいだろう。当時、森 正太郎氏は10隻の北前船を所有していた。米を運ぶ大船は150トンにも及び、12名程度の乗組員を要した。この邸宅は、その時代に富を築いた商人がどのような暮らしをしていたかを示しており、森家の商売をうかがうことのできる文献や航路図、北前船の模型などもある。

昆布は北から南へと運ばれた主要な商品のひとつであったが、北は北海道、南は薩摩藩と呼ばれていた九州の南端まで往復する中で、これらの船は他にも様々な商品を輸送していた。船は情報と文化を運び、富山は国内の他の地域に米を輸出していた。

同地域において船で輸出入されたもう一つの主要品目が、富山の医薬品である。富山は江戸時代以降、現在では漢方薬や代替医薬品と呼ばれるであろうその薬で名を馳せていた。富山の薬品製造者は、日本各地からの原材料の輸入を北前船に頼っており、その中には長崎を経由して海外から取り寄せられるものもあった。調合された薬品は、昆布ロードを通って遠隔地へと発送された。

これらの医薬品や伝統的な薬品製造業者は、富山の「池田屋安兵衛商店」のような店舗で現在でも見ることができる。この威厳と歴史を感じさせるたたずまいの商店は、いまだに伝統的なやり方に則って世界中から薬草を取り寄せ、顧客から病気に関する相談を個別に受けてから、専門家の手によってそれぞれに応じた薬品が巧みに調合される。富山県内では現在でも70社以上の医薬品関連企業が営業しており、富山が医薬品の中心地であるという世評はいまだに根強いと同社社長の池田安隆氏は語る。富山の医薬品業界が隆盛した背景には、その一端を担った北前船と昆布ロードの存在があった。

昆布ロードの歴史とともに発展してきた富山の地。昆布の味を説明してほしいと頼まれた「かねみつ」の牧野氏は答えに窮し、「昆布は昆布」とだけ答えた。ここ富山では、それ以上の説明はいらない。誰もが昆布を知っている。昆布は人々の生活様式にしっかりと根付いているのだ。



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