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Highlighting JAPAN

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世界遺産・富士山

日本人が敬愛する心のよりどころ〜富士山〜 (仮訳)



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世界文化遺産登録の正式名称が「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」であることが表すように、日本人にとって富士山は、信仰の対象“心のよりどころ”としての存在である。

富士山の信仰文化は、大きく分けて三つに分類される。一つめは富士山を実際に登ることによる信仰(登拝:とはい)、二つめは富士山を離れた場所から仰ぎ見る信仰(遥拝:ようはい)、三つめは文学や絵画に表された富士山を通じて得る信仰である。ここでは、その中から登拝と遥拝について、拓殖大学名誉教授であり、富士山学の第一人者でもある竹谷靱負(たけやゆきえ)氏に解説していただいた。


【登拝:とはい】

富士山を登拝するための道「登拝道:とはいどう」。この道を辿って富士山を登拝するという行為そのものが信仰であり、富士禅定(ふじぜんじょう:富士山に登って悟りに至る修行のこと)といわれる所以である。登拝道は数多くあるが、12世紀、最初に開かれた登拝道「大宮・村山口登拝道」、山麓から山頂まで徒歩で登拝できるほど整備された「吉田口登拝道」、南東麓の須山浅間神社を起点とする「須山口登拝道」、東麓の須走浅間神社を起点とする「須走口登拝道」の4本が世界文化遺産に登録されている。

富士山の中腹を周回する「お中道:おちゅうどう」は、富士山を三度登頂したものだけが歩くことを許されたという信仰の道。崩落や落石の危険があることから、今は一部の区間しか歩くことはできないが、緑あふれる森や今なお崩落を続ける大沢崩れなど、見どころ豊富なトレッキングコースとしても人気を集めている。

また、山頂の火口部には日本一の標高を誇る剣ヶ峰や白山岳など、富士八峰を見渡すことができ、その峰々を巡る「お鉢巡り」も有名である。

山中や海岸の洞穴を母胎や子宮に見立て、そこに潜ることで新たな生命を得る再生儀礼は、全国各地で広く見られる日本の習俗。富士山では、山全体を大きな母胎と考え、その山麓にある洞穴を「お胎内:おたいない」と称している。その代表的な8ヶ所を富士八胎内とし、その中から「船津胎内」と「吉田胎内」が世界遺産に登録された。この二つの胎内は、吉田口登山道に近接して存在したことから、登拝前の人たちが前日にここを訪れ、洞内に潜って身を清めるなど、富士信仰巡拝の霊地として位置づけられている。

富士山は女人禁制であったが、お胎内には女性も立ち入ることができ、当時の女性たちが直に接することができる貴重な信仰の場でもあった。

富士山への登拝を経験した方にお話を伺いすることにした。渋谷にある金王八幡宮の神主である田所さんは、「富士山への登拝は自分を知るという意味があります。富士山を登ることは人生と似たところがある。目的地を達成するまでの険しい上り坂がきついが、その後の下り坂もある。臨む勇気を持つことも大事だが、引く勇気を持つことも大事。日本の一番高い山の登る一つの魅力は、自分の限界を知ることや自分の体で登る大変さを経験することにあります」と語る。田所さんが2回目に富士山を登ったときは本宮浅間神社に参拝をした後、夜中に富士山を目指したのだそうだ。また田所さんは、富士山頂にいる神主について、山開きの期間内には交代で神社に入り、昔は木でできたかごを背負って食事、飲み物などの必需品を運んでいたと教えてくれた。彼のアシスタントであり、同じ神職を務めるウィルチコ・フローリアンさんは、24才という神道の理念によって厄年とされる年齢で富士山を初めて登った。登る途中で天気が悪化し、強風が吹くようになったため、登山に使う杖がなかったら、立っていることすらできなかっただろうと語ってくれた。厄年を振り返って、富士山から無事に下りられたことは強運だったと感じているという。

富士山は昔から日本の象徴であり、登拝者にとっては、自分への道でもあるのだ。


【遥拝:ようはい】

信仰の対象であるとは言っても、江戸・東京から見て、富士山は遥か彼方の遠い山。ところが、江戸時代(1603?1868)中期頃から、富士山を江戸のランドマークとする富士山ありきの江戸図が次々と発表され、江戸の庶民たちの間でも、富士山こそが日本の象徴という意識が広まっていった。江戸の町には富士見町、富士見坂、富士見台、富士見橋など、「富士見」の地名が各所に誕生し、富士山を遥拝することが江戸っ子の中心的文化となった。

富士山を信仰する者たちの集団を「富士講」といい、庶民の間で爆発的な富士信仰ブームが起こる。しかし、江戸から富士山へ行くのは簡単なことではなく、当時の富士山は女人禁制であったことから、富士講集団の中でも若い男衆しか富士登拝が叶わなかった。そこで、老若男女誰でも富士登拝の喜びが得られるようにと考案されたのが、富士山のミニチュア(模造富士)「富士塚」である。世界文化遺産の構成資産の中には含まれていないが、国や地方自治体から文化財指定を受けた富士塚は多数あり、都心に近いところでは、下谷坂本富士(小野照崎神社・境内)、豊島長崎富士(富士浅間神社・社殿横)、江古田富士(江古田浅間神社・境内)などが有名である。

富士塚の例としては、東京都内の新馬場駅近くに位置する品川神社がある。神主の鈴木さんによると、この富士塚は富士塚の中で比較的造営が遅かった(1869-1872頃)。富士塚に登ると富士山を実際に登った人と同じご利益を与えられることになるという。

北は北海道から南は長崎県まで、全国各地に分布する「浅間神社」も、富士山信仰文化の根幹をなす重要な遺跡。富士山の噴火活動が活発化した奈良末期から平安期、富士山はもはやただの山ではなく、浅間大神(あさまのおおかみ)と呼ばれるようになり、人々の間で山(神)に対する畏怖の念が強まっていった。そんな浅間大神を祀ったのが「浅間神社」であり、世界文化遺産には「富士山本宮浅間大社」(静岡県富士宮市)と「北口本宮冨士浅間神社」(山梨県富士吉田市)を含めた計8社が登録されている。

富士山を取り巻く信仰はそれだけ奥深いものであり、今回の世界文化遺産登録が、信仰の山・富士山のさらなる深みを探るきっかけになることを願う。



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