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Highlighting JAPAN

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特集復興する日本で出会った人々

被災地でボランティアを(仮訳)

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宮城県仙台市で、在留外国人向けの日本語教室の開催、留学生支援、市民の国際交流支援などの活動を行っている仙台国際交流協会は、東日本大震災の直後から仙台市災害多言語支援センター(以下、支援センター)を立ち上げ、外国人向けの情報発信を行ってきた。

「仙台市では、10年ほど前から、災害時に外国人を支援するためのボランティア育成を行ってきました」仙台国際交流協会の須藤伸子氏は言う。「ただ、大きな災害の時に、支援の中心となる支援センターを立ち上げて、外国人への言語支援を行うことを決めたのは、昨年の4月だったのです」

震災発生当日の3月11日夕方、仙台国際交流協会のある仙台国際センターに支援センターが立ち上げられると、日本人職員とボランティア達による活動が開始された。

まず、仙台市内にあるFM放送局から、簡単な日本語、英語、中国語、韓国語による災害情報の発信を行った。その後は、ラジオだけではなく、インターネットを通じても、それらの言語で、最新の情報を流し続けた。

震災直後から、センターには国内外からの電話が殺到した。最初の3日間で、600件以上の問い合わせが入った。そのほとんどは、宮城在住の外国人の本国の家族や友人からの安否確認だ。また、東北を旅行していた外国人観光客から、帰国方法に関する質問も多く寄せられた。震災から5日間は、支援センターは24時間態勢で対応した。

さらに、仙台市内の避難所を巡回し、外国人の安否確認、情報提供の活動も行った。

状況が落ち着いてきたため、支援センターは、4月30日に、その役割を終えている。最も多いときで、約20名の職員と30名以上のボランティアが活動に当たった。

「外国人ボランティアがfacebookやtwitterで情報を流してくれたのは、非常に助かりました」と須藤氏は言う。「支援センターの活動は、日本語のわからない外国人の方の心配を少しでも和らげる事に貢献ができたのではないでしょうか」

母国語での支援

仙台市災害多言語支援センターでは東日本大震災直後から数多くの外国人ボランティアが活動に参加した。その中から、東北大学の3名の留学生にThe Japan Journal の澤地治が話を聞いた。3名とも、震災前には、仙台国際交流協会による災害時言語ボランティアの研修を受けていた。

──震災時はどこにいらっしゃったのでしょうか。また、ボランティアとしてどのような活動をされたのでしょうか。

牛海黎:地震の時は家にいました。揺れが収まった後すぐ、仙台国際交流協会に向かいました。それから、FMラジオ局に行って、中国語で流す災害情報の録音をしました。その後、センターに戻り、一晩中、国内外からの問い合わせに対応していました。その多くは、仙台近辺に住む家族や友人の安否確認でした。私も家族が非常に心配していたので、彼らの不安な気持ちはよく分かりました。地震の日の夜は停電していたので、懐中電灯の光が頼りでした。震災前に参加した防災訓練で、ラジオと懐中電灯が大切と言われた時、その理由が良く理解できませんでした。今回、停電によって、光だけでなく、情報も得られなくなることが分かり、その重要性を実感しました。

震災の日以降も、数日間は仙台に残って災害情報の翻訳、FM放送で流す災害情報の中国語での録音、避難所の巡回による外国人への情報提供などを行いました。

イ・シングン:仙台市内のビルの5階で、日本人3名に韓国語を教えるアルバイトの最中でした。ビルは、まるでジェットコースターに乗っているように揺れました。恐怖で呼吸が苦しくなりましたが、生徒の一人が私の腕をしっかりと握ってくれて、「大丈夫、大丈夫」と言ってくれたので、落ち着くことができました。

翌日からセンターでボランティアを始めました。国内外から電話でかかってくる安否確認への対応、災害情報の翻訳、FM放送で流す災害情報の韓国語での録音、避難所の巡回による外国人への情報提供などを行いました。

日本語と韓国語では言い回しが異なることがあるので、なるべく誰にでもわかりやすい言葉に翻訳するよう努めました。また、電話や避難所で韓国人と直接話す時は、安否確認を依頼する人に対しても、被災者に対しても、その人の気持ちに寄り添うような姿勢で臨みました。具体的には、問い合わせをしてくる人の話を真摯に聞く、あるいは、センターやテレビのニュースで入手した情報を正確に伝えるよう心がけました。また「不安な時は、いつでも電話して下さい」と伝え、孤独感を持たせないように努めました。

アミン・エルムチョーキル:地震の時は、ビルの5階にある大学の研究室にいました。大きな揺れにとてもびっくりして、テーブルの下に逃げました。机の上のコンピュータが落ちて、壊れてしまいました。震災前に参加した防災訓練で、起震車に乗って地震を疑似体験していましたが、その時よりも、揺れは大きかったです。地震が収まった後、大学近くの避難所を数カ所訪れて、外国人がいるかどうかを確認してまわりました。ある避難所で、日本語が話せないフランス人がいたので、そこで、一晩を過ごしました。

──震災後も何故、日本にとどまったのでしょうか。

牛:ボランティアとして役に立ちたかったので、直ぐには帰国したくありませんでした。また、仙台市では以前と変わらず仕事を再開している人や、冷静に対処している日本人ボランティアを見て、仙台にいても大丈夫と思いました。中国の母親が非常に心配していたので、3月25日にいったん帰国しましたが、仙台の友人に様子を聞いたりして、仙台は安全だと判断しました。家族からは、余震や原子力発電所の事故が落ちつていていないのでもう少し中国にいるように言われましたが、仙台の人は既に普通に生活していると説明して、4月15日には再び日本に戻りました。日本に戻った後も、戻る前と同じように、センターで安否確認の対応、翻訳などの活動を行いました。

イ:韓国に住む両親や友人がとても心配して、帰国するように促されました。しかし、被災地の復興や原子力発電所の事故に取り組む人々を見守りたいという気持ちがありました。また、震災後、多くの日本人の友人から電話やメールで、「大丈夫でしょうか?」「食べ物はあるでしょうか?」という連絡をもらいました。日本にとどまり、そうした暖かい気持ちに応えたかったのです。

エルムチョーキル:津波や原子力発電の事故が、アラビア語やフランス語のメディアでも流されていたので、モロッコにいる家族からは、毎日のように、戻ってきなさいと連絡が入りました。しかし、私の住んでいるところまでは津波は襲ってこないし、福島第一原発からは、仙台は遠く離れており放射能の心配はまったくないので、私の判断を信じて下さいと言い続けました。私は災害時言語ボランティアとしての責任もありますし、日本人のためにも、何かしたいと思ったので、日本に残りました。

──今回のボランティア経験を今後、どのように活かしていきたいと考えていますか。

牛:今回の震災では、多くの日本人の友人に「大丈夫ですか?」と声をかけてもらい、精神的に支えられました。また、ボランティアを通じて、正しく言葉を訳すことの大切さを感じましたので、将来的には、通訳の仕事にも関わりたいと思っています。

イ:今回の震災は、誰も経験したことがないような天災ですが、被災した人々は、それをうらまず、物事に前向きに取り組んでいると感じます。韓国語を教えていた日本人の生徒から「地震のない韓国からいらした先生は本当に怖かったでしょう。それなのにボランティアで活躍され、本当に頭が下がります。」と言われ、嬉しかったです。

震災後、日本では様々な法律が必要になっていますが、そうした法律が、韓国にとっても見本になるかもしれません。今後、現在学んでいる法律の分野で、日本と韓国の架け橋となりたいです。

エルムチョーキル:地震直後、ある避難所で日本人の被災者が、避難していた外国人に配られた食べ物を渡してあげているのを見ました。言葉が通じない中でも助けようとしている様子に、とても感動しました。

今回の経験で、地震をどのように予知するか、どうやって被害を少なくするかということに関心が高まりました。


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